第69章 デコヒーレンスという橋
地下施設の白い廊下を進みながら、西園寺葵は足を止めた。先ほどの「三次元の世界はスケールで顔を変える」という説明がまだ頭の中で反芻されている。
電子は“雲”のように存在する。だが、日常生活で私たちが見る電子機器や机は、ちゃんと“物体”としてそこにある。
そのギャップを埋める言葉が、どうしても欲しかった。
「エリザさん」
葵は振り返り、理論物理学者に声をかけた。
「量子の世界は確率だと言いましたよね。じゃあ、私たちが見ている“確実な世界”は、どこから生まれるんですか?」
エリザは一瞬だけ視線を空へ向け、すぐに答えた。
「――それが“デコヒーレンス”です」
会議室に戻ると、エリザはホワイトボードに図を描いた。曲線が交わり合い、干渉縞を作っている。二重スリット実験の模式図だ。
「量子は本来、重ね合わせの状態にあります。電子は“ここにある”と同時に“あちらにある”こともできる。だから干渉縞が生まれる」
彼女はマーカーで線を消し、新たに荒れた模様を描いた。
「ところが、環境と相互作用すると、この重ね合わせは壊れます。空気分子や光子、測定装置との相互作用によって、干渉項が消え、状態は確率分布へと落ち着く。これがデコヒーレンスです」
葵は首をかしげた。
「つまり、環境が邪魔をして“量子的な曖昧さ”が消える、ということですか?」
「邪魔、というより“巻き込む”のです」
今度は久我が補足した。
「電子がある場所に存在すると、周囲の分子や光子がその情報を“知ってしまう”。それによって、電子の波は他の可能性と干渉できなくなる。観測者がいなくても、環境そのものが観測者の役割を果たしているんです」
横で話を聞いていたレベッカ・ハワードが、コーヒーカップを片手に笑った。
「AIのノイズ処理と同じね。たとえば膨大なデータの中からパターンを探すとき、ノイズが強いと“複数の可能性”が重なって見える。でも環境がそのうちの一つを強調すれば、残りは消えてしまう」
彼女は手元のタブレットに簡単なグラフを表示した。赤と青の線が重なり、やがて赤だけが際立つ。
「私たちが観測する現実って、要するに“強調された一つのパターン”なのよ。量子の曖昧さが消え、古典的な確実さに見えるのは、環境が選別した結果」
葵はノートにペンを走らせる。
「でも……選ばれなかった可能性はどうなるんですか?」
部屋が静まり返った。エリザが、わずかに口角を動かした。
「それは“消えた”というより、“他の世界へ分岐した”と考える人もいます。多世界解釈ですね。もっと控えめに言えば、我々の世界からは干渉できないほどに情報が拡散してしまった。だから一つに見える」
久我は白板の端に小さな数式を書いた。
ρ → Tr_env ( |Ψ⟩⟨Ψ| )
「これは密度行列の縮約。環境の自由度を“捨てる”と、純粋な重ね合わせは混合状態に変わります。
簡単に言えば、周囲を無視した瞬間に、曖昧さは統計的な確率に変換されるんです」
葵は思わず笑った。
「つまり、私が机を“机”として見ているのは、宇宙全体が協力して“その状態を固定”してくれているから?」
「そういうことです」
エリザは冷静に答えた。
「巨視的な物体は、環境との相互作用が莫大すぎて、重ね合わせが瞬時に壊れる。だから私たちは、常に“確実な世界”に住んでいられるのです」
取材クルーのカメラマンが思わずつぶやいた。
「なるほど……夢のような可能性は、環境がすぐに潰してしまうわけか」
レベッカがウィンクして応じる。
「でも、完全には潰せないわ。量子コンピュータは、その“潰れきる前の短い時間”を利用して計算しているんだから」
葵はページの余白に、大きくこう書いた。
「デコヒーレンス=量子の曖昧さを環境が統計へ変換する橋」
その言葉を眺めながら、彼女はふと考えた。
私たちが見ている現実は、実は環境によって“固定されたひとつの顔”にすぎない。
ならば――“固定されなかった無数の顔”はどこへ消えたのだろう?
次の問いが、もう彼女の胸に芽生えていた。