第68章 ミクロと3次元
――どんなにミクロに入り込んでも、世界は三次元なのか?
地上の世界は、縦・横・高さの三つの次元でできている。人間の生活も、建物も、山や海も、その三つの座標で測れる。しかし、もし原子の奥、さらに素粒子の奥へ潜っていったらどうなるのだろう。そこでもやはり「縦・横・高さ」の三次元で説明できるのか。それとも、まったく別の形をした世界が待っているのか。
葵はノートの最初のページに、問いを太字で書き込んだ。
「どんなにミクロに入り込んでも、世界は三次元なのか?」
やがてエレベーターが停止し、扉が開いた。
彼女の目の前に広がっていたのは、銀色の配管と、極低温で白い霧を吐き出す冷却システムの迷路だった。遠くからは重低音のような機械の唸りが響いてくる。まるで地底に造られた未来都市のようだ。
「西園寺さん、ようこそ」
迎えに来たのは、細身で眼鏡をかけた男、久我隼人。加速器工学の第一人者であり、この施設の主任技術者だ。
「まずはご質問をどうぞ。ジャーナリストの方の最初の問いは、我々にとっても面白い視点になることが多い」
葵は迷わずノートを開き、記した言葉を読み上げた。
「どんなにミクロに入り込んでも、世界は三次元なのでしょうか?」
久我は小さく頷き、隣にいた女性を手で示した。鋭い瞳と冷静な表情を持つ理論物理学者、エリザ・クラインだ。
「答えは“はい”です。ただし条件つきで」
エリザはノートを覗き込み、即答した。
「素粒子も人間も、同じ三次元空間に存在します。ですが、支配する法則がスケールによって違うのです」
彼女はペンを取り出し、紙に簡単な図を描いた。
•量子力学:原子や電子のような小さな世界。確率でしか位置が定まらない。
•古典力学:人間や日常の世界。ニュートンの運動方程式で動きを予測できる。
•相対論:光速に近い速度や、強い重力の下での世界。時間や空間そのものが歪む。
「これらは別々の理論に見えますが、実際は同じ現実を異なるスケールで近似したものにすぎません」
久我が補足する。
「たとえば量子の世界では、電子は“雲”のように広がって存在します。しかし、我々がたくさんの電子を扱うと、その確率の揺らぎは平均され、ニュートン力学に従う物体として見える。これが“古典世界”です」
「逆に、車やロケットの速度が光速に比べて十分遅ければ、時間の遅れなどの相対論効果は無視でき、古典的な近似で十分になります」
エリザが指で数式をなぞる。
「根本的に違うように見えても、それは単に有効理論の適用範囲が違うだけ。
大きなスケールではニュートン力学、小さなスケールでは量子力学。極限では相対論。矛盾はなく、全ては重なり合っているのです」
葵は唇に指を当て、思索に沈んだ。
「じゃあ、人間にとっての“現実”はどこにあるんでしょう? 確率的な量子? 決定論的な古典? それとも歪んだ相対論の世界?」
久我とエリザは顔を見合わせた。
久我が微笑しながら答える。
「現実は一つです。ただ、観測者が使うレンズによって顔が変わるんです。科学とは、そのレンズをどう選び、どうつなぐかを考える営みなんですよ」
葵はノートに線を引いた。
「世界は三次元。しかしスケールごとに法則の顔が変わる」
地下の奥で、加速器が稼働を始めた低い唸りが響いた。
科学の現場は動き続けている。
問いの答えは、ここからさらに深く掘り下げられていくのだ。