第66章 地下トンネル ― 巨大実験施設の鼓動
プレスセンターでの簡単なオリエンテーションが終わると、各国のメディアは数十人ずつのグループに分けられた。西園寺葵とクルーもその一団に加わり、施設案内の研究員に導かれてエレベーターへ向かう。
「これから地下百メートルのトンネルにご案内します。長時間の移動になりますが、どうぞご容赦を」
研究員の言葉に、同行の記者たちはどよめいた。
エレベーターが静かに下降を始める。壁面に設置された透明スクリーンには、施設の断面図が映し出され、今どの層を通過しているのかが表示されていた。コンクリートの層、冷却管の層、そして加速器リングに接続するメインアクセス。
「まるで地下都市ね」
葵が呟くと、研究員は笑みを浮かべる。
「実際、その規模です。冷却設備、電源供給、AI制御サーバー群――これらがひとつでも止まれば実験は成り立ちません」
エレベーターが止まり、扉が開いた瞬間、冷気が流れ込んできた。目の前には幅十メートル以上のトンネルが弧を描きながら続いている。壁面には銀色に輝く超伝導マグネットが整然と並び、青白い光が冷却パイプから漏れ出している。
「……これが、人類最大の実験装置」
葵は息を呑んだ。
斎藤がカメラを回す。レンズ越しに見るその光景は、まるでSF映画のセットのようだった。だが、ここで行われるのは虚構ではなく、現実の物理実験だ。
「このマグネット一基の冷却に必要な液体ヘリウムの量は?」
葵が問いかけると、研究員は即答した。
「年間数百リットル単位です。ですが、システム全体では“世界最大の冷蔵庫”とも呼べる規模になります」
その説明に、周囲の記者たちが一斉にメモを取った。
葵はふと、手帳に次の一文を記す。
――「科学は、極限の冷たさで熱い問いを探す」
さらに奥へ進むと、分岐する通路の先に巨大な扉が現れた。そこは制御室に通じるエントランスだった。バイオメトリクス認証を経て扉が開くと、内部は壁一面のモニターに囲まれ、数十人のオペレーターがキーボードを叩いていた。
AIアシスタントが常時稼働し、実験データがリアルタイムで可視化されている。
「皆さんがご覧になるのは、まさに実験の“心臓部”です」
案内役の研究員は誇らしげに語った。
葵はリポートを続ける。
「視聴者の皆さん、ここでは数兆の粒子が光速近くまで加速され、衝突します。その瞬間に現れるのは、宇宙誕生直後の姿――ビッグバンの残響です。科学者たちはその痕跡を追い、宇宙の根源を解き明かそうとしているのです」
カメラに向けた彼女の言葉に、背後のモニター群が応えるかのように数値を流し続ける。
そのとき、若い研究者のひとりが彼女に声をかけてきた。
「ジャーナリストの方ですよね。科学を“社会に返す”と言っていましたよね」
「ええ」
「実は、僕ら研究者もそれを意識しているんです。けれど、どう伝えればいいのか迷うことが多い」
葵は微笑んだ。
「だから私がここにいるの。あなたたちが見つけた“粒子”を、私は“言葉”に変える。それが、科学と社会をつなぐ回路よ」
研究者は頷き、再びコンソールへ向かった。
制御室の奥から地下トンネルを覗き込むと、遥か彼方まで続く光の帯が見える。人間の視界を超えるスケールの装置。それはまるで、地球そのものが一つの実験器具になったかのようだった。
葵はカメラに向かって、静かに言葉を紡ぐ。
「科学は壮大すぎて、ときに人を圧倒します。けれど、この地下での営みは、決して研究者だけのものではありません。これは“私たち全員の未来”を形づくる装置です」
その瞬間、制御室に漂っていた緊張と静寂が、彼女の声に重なるように感じられた。