第64章 空の上の対話 ― 成層圏を越えて
機体は静かに上昇を続けていた。
プラズマ推進ランプの淡い光が窓の外で瞬き、東京の街並みはいつしか夜明け前の灯火のように遠ざかっていく。雲海を突き抜けた瞬間、空は濃紺から漆黒へと変わり、視界の端に地球の曲線がはっきりと見えてきた。
「……すごい」
思わず漏れた声に、隣の若い研究者が頷いた。
「これが高度二万メートルを超えた光景です。まだ宇宙には届かないけれど、地球の丸さを実感できますよね」
彼は興奮を隠さず語ったが、葵はリポーターとして冷静に、その情景をどう伝えるかを考えていた。
カメラマンの斎藤がレンズを向ける。
「葵さん、一言どうぞ」
「はい」
葵は深呼吸をしてから、窓の外に広がる蒼い地球を指さした。
「ご覧ください。私たちが暮らすこの星は、こうしてみると小さな球体です。科学者たちが粒子加速器で探ろうとしているのは、原子よりもさらに小さな世界の真理。でも、ここから見えるのは“地球全体”というもう一つの真理。科学のスケールは、ミクロからマクロまで無限に広がっているんです」
彼女の言葉に、隣席の研究者が苦笑する。
「やっぱりジャーナリストは違いますね。僕たちはつい粒子や方程式にしか目がいかない」
「あなた方がミクロを掘り下げてくれるから、私はマクロな言葉で人々に届けられる。役割の違い、でしょうか」
「なるほど……」
機内の空調は穏やかで、静かなエンジン音が続く。
葵は再び手帳を開き、走り書きした。
――「科学者は深掘り、ジャーナリストは翻訳者」
機内アナウンスが流れ、研究者や記者たちが軽食を取り始める。隣席の研究者は名刺を差し出した。
「国際加速器研究所の木村といいます。今回の実験、僕は日本代表チームの一員で」
「そうなんですね」葵は名刺を受け取りながら尋ねた。
「木村さんにとって、この新しい加速器はどんな意味を持ちますか?」
彼はしばし考え込み、真剣な眼差しで答えた。
「……人類が“物質の根源”にもっと近づける実験です。ヒッグス粒子の発見で終わりじゃなかった。まだ“次”があるんです」
その熱意に、葵は微笑んだ。
「では、社会にとってはどうでしょう? 研究費や市民の理解という意味で」
木村は言葉を詰まらせた。
「……それは、難しい質問ですね」
その間を逃さず、葵はカメラに向かってリポートを続けた。
「いま、科学は社会と向き合う時代に入っています。粒子の発見は世界を驚かせますが、それだけでは人々の生活に直結しません。けれど、ここで培われた技術――超伝導、AI解析、量子通信――は必ず社会に還元される。科学の最前線は、“未来の暮らし”そのものを形づくるのです」
隣で木村が息を呑む気配がした。
「まるで……講演みたいですね」
「いいえ。ただの“翻訳”です」葵は肩をすくめた。
「あなた方が数式で語ることを、私は社会の言葉に置き換えているだけ。科学は独り占めするものじゃないでしょう?」
短い沈黙ののち、木村は笑い、頷いた。
「その通りです。実は僕ら研究者も、時々忘れてしまうんです」
窓の外には、成層圏の薄い空気を透かして、朝日に照らされた地球の稜線が輝いていた。
斎藤が小声でつぶやく。
「いい映像が撮れたな……」
葵は再びペンを走らせる。
――「科学は、地球の丸さと同じ。誰かのものではなく、みんなのもの」
そう書いた文字が、これから向かう巨大実験施設の姿と重なった。人類全体を映す鏡としての科学。その舞台へ、自分はリポーターとして立ち会おうとしている。
機体は欧州上空へと向け、静かに弧を描いて進んでいった。