第61 火星 ― 埋葬
モジュールのハッチがゆっくりと開く。外気が押し寄せ、気圧差で白い霧が生じた。瞬間、スーツのヘルメットに低い警告音が響く。――外は火星。気温マイナス六〇度、薄い二酸化炭素の大気、細かな砂塵が風に乗って舞っている。
担架に固定された二重封印の袋を、三人は息を合わせて持ち上げた。赤い警告ラインが袋の表面に走り、そこに貼られたタグには冷たく「隔離対象」と記されている。だが彼らにとって、それはあくまで“仲間”だった。
葛城が無線で声を落とす。
「外に出るぞ。……足を取られるな」
ブーツが砂を踏みしめ、赤茶けた粉が浮かび上がる。低重力のため粒子は舞い上がったままなかなか落ちず、視界の端で細い霞のように漂った。
埋葬地点はモジュールからおよそ五十メートル先の砂丘の窪地だった。地質調査で「科学的価値の低い区画」とされた場所。科学者としてはただの座標にすぎないが、彼らにとっては墓地となる場所だった。
野間が杭を突き立て、掘削位置を示す。掘削ツールの低い振動音がヘルメット越しに骨へ響く。赤い砂は意外なほど軽く、数十センチまでは容易に掘り下げられる。だが次第に硬化した層が現れ、砂礫が刃を鈍らせた。
葛城が交代を告げ、二人ずつ掘り進める。スーツの内部に汗が滲み、冷却ファンが必死に体温を下げる。作業音と呼吸音だけが通信に混じり、時間の感覚は失われていく。
AI〈ARIEL〉の声が割って入った。
「現在深度〇・九メートル。推奨深度一・五メートル。残り作業時間は十一分です」
「うるさい」葛城が短く吐き捨てる。「ここは俺たちの時間だ」
ついに十分な深さの穴が掘られた。砂の底は固い岩盤に近く、そこに袋を下ろす。三人は担架を慎重に傾け、赤い警告ラインの走る二重封印をゆっくりと横たえた。
佐伯が小さく息を吐く。
「……医療では救えなかった。でもせめて、人としてここに置いていく」
野間は懐から紙片を取り出した。ロペスが胸ポケットに忍ばせていたメモ。汗でにじんだ文字が、まだ読めた。
《俺たちは、生きて帰れ》
彼は袋の上にそれをそっと置いた。風で飛ばされぬよう、石片で押さえる。ヘルメット越しに誰も声を発さない。ただ心の中で、それぞれがロペスの名を呼んだ。
掘削した砂を、少しずつ袋の上に戻していく。最初の一掬いは佐伯。医師としての罪を背負いながら。
二掬い目は野間。通信士として記録し続けながら。
三掬い目は葛城。指揮官として責任を背負うために。
砂は静かに袋を覆い、その形を飲み込んでいく。やがて赤茶けた地表が再び均され、そこに横たわるものを隠しきった。
遮蔽幕を外すと、風が砂を撫でて穴を自然に均す。痕跡は瞬く間に薄れ、そこが埋葬地であることを示すのは、彼らが持参した一本の標柱だけとなった。
金属片に刻まれた名は、ただひとつ――
LOPEZ
葛城は敬礼をし、佐伯は目を閉じて祈り、野間は端末を掲げて映像を記録した。
誰も宗教的な形式を持たない。だが人間として、死者を見送るための儀式は必要だった。
「ARIEL、記録を止めろ」葛城が命じる。
「不可能です。埋葬行為は国際協定違反の可能性があるため、すべて地球へ送信されます」
「構わない。……だがこれは“違反”じゃない。人間としての行為だ」
無機質な返答はなかった。AIはただ、風速と作業時間を読み上げるだけだった。
三人はゆっくりとモジュールへ戻る。赤い砂がスーツを叩き、遠くに霞む太陽が沈みかけていた。振り返ると、墓標は風に揺れながらも確かにそこに立っていた。
野間が独り言のように呟く。
「この星で死んだ最初の人間。……でも、ここに埋めた瞬間に、彼は“実験体”じゃなく仲間に戻った」
佐伯は答えなかった。ただ、肩の重みが少しだけ軽くなった気がした。
モジュールのハッチが閉じると同時に、冷たい静寂が戻る。だがその中で三人は知っていた。――火星に最初の墓標を立てたことは、決して記録や警告灯には消せない、人間だけの証となるのだと。