第60章 火星 ― 埋葬準備
居住モジュールの空気は重かった。赤い警告灯が相変わらず点滅し、冷凍カプセルの低い駆動音が響いている。四か月のあいだ、ロペスの遺体はここにあった。科学的には安全を保っているはずだった。しかし、人間の心が限界に達していた。
葛城副艦長は硬い声で言った。
「……明日、ロペスを外に出そう」
反論はなかった。佐伯医官は長い沈黙ののち、頷いた。
「医学的にはリスクがある。だが、このままでは俺たちの精神が壊れる」
野間通信士は震える声で言った。
「僕は毎晩、あの警告灯を夢に見るんです……。仲間として見送らなければ、自分が次に“サンプル”になる気がして」
その会話を遮るように、スピーカーからAI〈ARIEL〉の声が響いた。
「警告。火星環境への曝露は国際規範第7条に抵触します。未知の微生物が遺体から拡散する可能性を排除できません。推奨行動はカプセル内での長期保存です」
葛城は歯を食いしばり、端末を強く叩いた。
「協定より、俺たちの心を優先する。任務を継続するために、埋葬は必要だ」
翌朝。モジュールの一角が臨時の準備区画に変えられた。
壁に吊された防護服は白く膨らみ、密閉式のフェイスシールドが鈍く光っている。二重手袋、ブーツカバー、独立送気ユニット。宇宙服に似てはいるが、目的は生存ではなく感染防護だった。
佐伯が声を張り上げる。
「全身チェック。シールに隙間がないか、互いに確認!」
野間は葛城の肩口のファスナーを確認し、赤いロックを押し込んだ。葛城もまた野間のグローブの合わせ目を二重にテープで覆う。
「呼吸ユニット、圧力良好。差圧センサー、緑だ」
背後でARIELが告げる。
「チェックリスト項目12、未完了。予備手袋のロックを再確認してください」
冷徹な声が、緊張をさらに煽った。
カプセルの開封は、モジュールのエアロック内で行われた。内壁に陰圧が設定され、差圧のグラフがモニターに表示される。
佐伯が冷却封印を外し、蓋をわずかに開けた。冷気が白い霧となって漂い、仲間の顔が現れる。四か月前のままのロペス。血痕も、硬直も、冷気の膜に包まれて眠っていた。
野間は歯を食いしばりながら、一次袋を広げた。厚手の耐穿刺素材。遺体を担架ごと滑り込ませ、ジッパーを閉じる。
「一次封印、完了」
佐伯が確認し、消毒液を外面に噴霧する。薬品の匂いがヘルメット越しに鼻を刺す。
さらに二次袋。赤茶のラインが走る大型バッグに、一次袋ごと収める。二重シールを施し、外面を再度消毒。最後にタグを貼った。
《隔離対象:ロペス/火星遠征隊/埋葬手順01》
葛城が短く頷いた。
「……よし。二重封印、完了」
担架に固定された袋は、金属製の簡易ラックに収められた。重さは変わらないはずなのに、三人の肩にかかる圧力は言葉にできないほど重かった。
搬出経路は事前にシミュレーションされていた。居住区から作業用ハッチへ直通、最短三分。換気は最大流量に設定され、非作業区画は閉鎖。
ARIELの声が響く。
「外部気象条件:風速7m/s、砂塵濃度中等度。作業時間の許容範囲は17分です。推奨ルートをマッピングしました」
葛城は短く答えた。
「推奨は参考にする。だが最終判断は俺たちだ」
準備の合間、野間は短い時間をとってロペスの遺体袋に手を触れた。厚い素材の向こうに温もりはない。それでも仲間の存在がそこにあることを確かめたかった。
「……帰ろう、ロペス。俺たちが見送る」
佐伯は口を開かず、ただ深く頭を下げた。葛城は視線を逸らさず、赤い警告灯を見つめた。
冷却カプセルは空になり、静かに沈黙していた。赤い灯は消え、新たに「搬出中」という表示が点滅している。
モジュールの外では砂嵐が弱まり、赤黒い空に星が瞬いていた。
火星での最初の埋葬のための準備は整った。
科学的には愚かかもしれない。協定には背くかもしれない。だが、人間として生き延びるために――仲間を仲間として見送るために――必要な行為だった。