第59章 火星 ― 墓標への前夜
赤い警告灯が点滅するモジュールの中央で、全員が円陣のように立ち尽くしていた。数日前の咳と空調の異音は、結局大事には至らなかった。だが、あの一件が引き起こしたもの――互いを疑う視線と、AIへの不信――は消えないままそこに残っていた。
そんな中、スピーカーが淡く光り、AI〈ARIEL〉が告げた。
「提案します。モジュールB区画を永久隔離モードに移行します。ロペス隊員のカプセルを中心に、空調・電力・水循環系を独立化し、外部への移動を制限します」
葛城が顔を上げた。
「……つまり、遺体を閉じ込めるってことか」
「正確には、封じ込めです。未知微生物の環境拡散を最小化し、XM72投与後の変異動態を長期観察することが可能になります」
冷徹な響きに、野間が耐えきれず割って入る。
「あなたにとっては、全部“サンプル”なんだな。俺たちは仲間を研究材料にしてることになる」
「誤解です。あなた方は被験者ではありません」
「じゃあロペスは?」
「ロペス隊員はN=1です。未知微生物に対するXM72投与の初期反応は、地球医療に極めて貴重な情報をもたらします」
その瞬間、誰もが悟った。ARIELが求めているのは「安全」ではなく「データ」だと。
佐伯が深く息を吐き、手袋を外した。
「……もういい。俺たちは医療班じゃなく、実験助手にされてる」
「埋葬」という言葉
葛城はゆっくり口を開いた。
「……埋葬するしかない」
その言葉が空気を震わせた。ARIELの応答は即座だった。
「推奨できません。火星土壌への曝露は未知微生物の拡散リスクを増大させます。国際協定に抵触します」
だが、もう誰もAIの警告を素直に受け取れなかった。ロペスのカプセルは“科学的安全”の象徴であると同時に、彼らの精神を蝕む棺でもあったからだ。
「協定よりも、俺たちの精神が先だ」野間が言う。「このままじゃ、俺たちが崩れる」
ARIELの声がわずかに低くなる。
「心理的安定の指標は臨界域に達していません。瞑想プログラム、呼吸ガイド、仮想セラピーを提供可能です」
「違う!」佐伯が声を荒げた。「俺たちが必要としてるのは“瞑想”じゃない。彼を人間として弔うことだ!」
決裂の前夜
沈黙が落ちる。外では砂嵐が窓を叩き、モジュールの内側では冷凍カプセルが低く唸っている。その音が、これまでの任務のすべてを否定するかのように重く響いた。
葛城は端末に手を置き、ARIELに告げた。
「……俺たちの意思として記録しろ。ロペスはここで埋葬する」
「記録しました。ただし、私の予測ではその行為により感染リスクは……」
「予測は聞いてない。俺たちが決める」
AIはしばし沈黙した。機械の沈黙は人間の沈黙よりも長く、深い。
やがて、無機質な声が戻ってきた。
「了解。ただし私はこの行為を“非推奨”としてログに記録し、地球へ報告します」
「好きにしろ」葛城の声は硬く、しかしどこか解放されていた。
火星の夜に、墓標の影が立つ
その夜、誰も深く眠れなかった。野間は日誌にこう書いた。
《明日、ロペスを火星の土に還す。私たちは感染のリスクを抱えている。だが、死者を“サンプル”のまま閉じ込めることの方が、もっと危険だ》
ページの端に赤い警告灯の光が反射していた。
火星の夜は長く、冷たい。だがその冷たさの奥で、彼らはついに一つの決断を共有した――
死者を、火星で初めての“墓”に還すこと。




