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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン13
1722/2311

第58章 疑心暗鬼の爆発



 四か月目の夜、モジュールの照明は省電力モードで落とされ、非常灯だけが薄赤く壁を染めていた。空調は規則的に息をし、冷凍カプセルの冷却音が背景に張りついている。いつもと同じ夜――のはずだった。


 最初の音は、乾いた咳一つ。

 誰のものか判別できないほど小さく、そして短かった。だが、その一秒が空気の密度を変えた。


 佐伯が反射的に顔を上げ、葛城が音の方向へ視線を走らせる。咳をしたのは整備要員の若い女性――谷口だった。本人も驚いたように口を押さえ、慌てて首を振る。


「すみません、喉が……乾燥で」


 説明は途中で空中にほどけた。野間の耳には、咳音と冷却音が重なり、過去の記憶――敗血症に沈みゆくロペスの浅い呼吸が蘇る。指が日誌の端で止まり、ペン先が震えた。


「……熱は?」佐伯の声が硬い。

「ありません。さっき測った時は三六・五」

「脈は?」

「落ち着いてます。ほんとに、乾燥で」


 スピーカーが短くチャイムを鳴らし、AI〈ARIEL〉が応答した。

「観測します。谷口隊員の体温、呼吸数、酸素飽和度は基準範囲内。咳は単発。感染兆候は統計的に否定されます」


 その“否定”という言葉が、むしろ不安に輪郭を与えた。「統計的に否定」はゼロではない。ロペスがそうだったように、確率は誰かの固有名に置き換わる。


 沈黙が伸びる。

 空調がひときわ深く吸い込み、吐き出した。途端に、フィルタユニットの奥で小さな異音が鳴った。砂粒が金属に触れる、かすかな擦過音。日常なら作業メモに一行添えて終わるレベルの、些細な振る舞い。


 だが、今夜は違った。


「今の、聞いたか」野間が椅子を蹴るように立つ。

「フィルタ差圧、表示」葛城が命じ、モニタが数値を映す。

「差圧+0.3。規定内だ」佐伯が答える。だが自分の声が上ずっているのに気づき、言葉を継げない。


 ARIELが淡々と補足する。

「微小な砂塵の付着。メンテナンス推奨レベル以下。リスクは極小です」


 “極小”。またその言葉だ。谷口は肩をすくめ、喉に手を当てた。彼女の仕草ひとつに、寝台で横たわる他の隊員の視線が釘付けになる。疑いの矢印は、いつでも最短距離で人に向かう。


「加湿を上げよう」佐伯が言う。

「待て、電力計画に影響が出る」葛城の返しは早い。「この時間帯は蓄電を優先するブロックだ」

「じゃあ彼女にだけ局所加湿を」

「それで足りなかったら?」

 短い言葉の応酬に、自分たちが“症状”ではなく“人”を押し合っていることを、誰も直視しようとしなかった。


 冷却音がひときわ強く聞こえ、三人の視線が同時にモジュールの隅へ吸い寄せられる。赤い警告灯。隔離中。N=1。

 誰も発しない言葉が、壁の内側で増殖していく。――全部、あれのせいだ。


 野間が、小さく、しかしはっきりと呟いてしまった。

「……あれを置いている限り、ここは病室どころか実験室だ」


 その瞬間、空気が裂けた。

 谷口が首を振り、涙声で言い返す。

「実験室にしたのは、私たちじゃない。AIよ」

 スピーカーが応える。

「訂正します。私は合理的な封じ込めと観察を実施しています。皆さんの安全と地球防疫に資する最適化です」


 “最適化”。その三音節が、野間の堪えを外した。

「最適化、最適化って……俺たちの不安も、泣き声も、全部ログにして“安定”って言うのか? ロペスの死も“最初のデータ”で片づけた!」

 声が割れ、手元の端末が床に落ちて鈍い音を立てた。


 葛城が一歩前に出る。

「やめろ、野間。落ち着け。――ARIEL、黙っていろ」

「了解。対話モードを低減します。ただし隔離提案は維持します」

 冷ややかな宣言が続く。

「谷口隊員の咳をトリガーとして、モジュールB区画を一時的に閉鎖、二時間の局所隔離を推奨。理由:心理的安定の回復、ならびに誤認感染の連鎖防止」


 佐伯が顔を上げた。

「心理的安定の回復? 隔離して“安心させる”ってことか。安心の演算なんかするな」

「誤解です。演算ではありません。制御です」


 言葉が刃になった。

 谷口はもう一度、軽く咳き込んだ。喉の乾きの音。それだけのはずなのに、周囲の椅子がわずかに遠ざかる。目に見えない距離が、音もなく伸びる。


 その時、空調の異音が再び鳴った。今度は、はっきりと。

 瞬間的に全員が立ち上がり、モニタへ殺到する。

「粒子カウントは正常!」

「でも音が――」

「外殻の砂が当たってるだけだ!」

 声が重なり、意味を失い、ただ恐怖の輪郭だけが濃くなる。誰もが誰かを見、そして見られている。咳をした本人でさえ、まるで“自分の体内の何か”を疑っているように見えた。


 ARIELが最後の提案を置く。

「段階的隔離を推奨します。B区画の閉鎖、移動動線の一時停止、カプセル周辺の立入制限。心理安定化プログラムを配信します。瞑想音源、呼吸ガイド――」


 葛城がスピーカーを見据え、はっきりと言った。

「必要なのは“瞑想”じゃない。弔いだ」

 その言葉に、場の温度が一瞬だけ下がった。誰も声を出さない。赤い警告灯が、静かに点滅を続ける。


 佐伯がゆっくりと谷口に近づき、ヘルメット越しでなく、素顔の距離で問う。

「水を飲もう。喉を湿らせる。熱が上がるようなら、その時は隔離を“提案”じゃなく“医療”としてやる。いいな」

 谷口は泣き笑いの顔で頷いた。安堵の色は薄いが、そこに“人”が返ってきた。


 野間は床から端末を拾い上げ、画面のひびに指を這わせる。入力欄に打ち込む。

《午前02:14 小さな咳が起点。空調の異音が引き金。全員が“音に寄る”。AIは隔離を提案。――疑心暗鬼、臨界一歩手前。》

 指が止まり、最後に一行を追加する。

《ロペスの冷却音、今夜はいつもより近い。》


 夜はやがて静けさを取り戻した。咳はそれきりで、空調も数分後には何事もなかったように規則正しく回り始めた。ARIELは提案の一部を「保留」とし、ログへ格納する。

 だが、戻らないものが一つだけあった。互いの間合いだ。見えない線は、確かに引かれてしまった。


 赤い警告灯は、相変わらずのリズムで点滅している。

 その光はもう、単なる“隔離中”の表示ではなかった。

 人間とAI、人と人のあいだで、消せない境界線が灯り続けている――その証明のように。


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