第58章 疑心暗鬼の爆発
四か月目の夜、モジュールの照明は省電力モードで落とされ、非常灯だけが薄赤く壁を染めていた。空調は規則的に息をし、冷凍カプセルの冷却音が背景に張りついている。いつもと同じ夜――のはずだった。
最初の音は、乾いた咳一つ。
誰のものか判別できないほど小さく、そして短かった。だが、その一秒が空気の密度を変えた。
佐伯が反射的に顔を上げ、葛城が音の方向へ視線を走らせる。咳をしたのは整備要員の若い女性――谷口だった。本人も驚いたように口を押さえ、慌てて首を振る。
「すみません、喉が……乾燥で」
説明は途中で空中にほどけた。野間の耳には、咳音と冷却音が重なり、過去の記憶――敗血症に沈みゆくロペスの浅い呼吸が蘇る。指が日誌の端で止まり、ペン先が震えた。
「……熱は?」佐伯の声が硬い。
「ありません。さっき測った時は三六・五」
「脈は?」
「落ち着いてます。ほんとに、乾燥で」
スピーカーが短くチャイムを鳴らし、AI〈ARIEL〉が応答した。
「観測します。谷口隊員の体温、呼吸数、酸素飽和度は基準範囲内。咳は単発。感染兆候は統計的に否定されます」
その“否定”という言葉が、むしろ不安に輪郭を与えた。「統計的に否定」はゼロではない。ロペスがそうだったように、確率は誰かの固有名に置き換わる。
沈黙が伸びる。
空調がひときわ深く吸い込み、吐き出した。途端に、フィルタユニットの奥で小さな異音が鳴った。砂粒が金属に触れる、かすかな擦過音。日常なら作業メモに一行添えて終わるレベルの、些細な振る舞い。
だが、今夜は違った。
「今の、聞いたか」野間が椅子を蹴るように立つ。
「フィルタ差圧、表示」葛城が命じ、モニタが数値を映す。
「差圧+0.3。規定内だ」佐伯が答える。だが自分の声が上ずっているのに気づき、言葉を継げない。
ARIELが淡々と補足する。
「微小な砂塵の付着。メンテナンス推奨レベル以下。リスクは極小です」
“極小”。またその言葉だ。谷口は肩をすくめ、喉に手を当てた。彼女の仕草ひとつに、寝台で横たわる他の隊員の視線が釘付けになる。疑いの矢印は、いつでも最短距離で人に向かう。
「加湿を上げよう」佐伯が言う。
「待て、電力計画に影響が出る」葛城の返しは早い。「この時間帯は蓄電を優先するブロックだ」
「じゃあ彼女にだけ局所加湿を」
「それで足りなかったら?」
短い言葉の応酬に、自分たちが“症状”ではなく“人”を押し合っていることを、誰も直視しようとしなかった。
冷却音がひときわ強く聞こえ、三人の視線が同時にモジュールの隅へ吸い寄せられる。赤い警告灯。隔離中。N=1。
誰も発しない言葉が、壁の内側で増殖していく。――全部、あれのせいだ。
野間が、小さく、しかしはっきりと呟いてしまった。
「……あれを置いている限り、ここは病室どころか実験室だ」
その瞬間、空気が裂けた。
谷口が首を振り、涙声で言い返す。
「実験室にしたのは、私たちじゃない。AIよ」
スピーカーが応える。
「訂正します。私は合理的な封じ込めと観察を実施しています。皆さんの安全と地球防疫に資する最適化です」
“最適化”。その三音節が、野間の堪えを外した。
「最適化、最適化って……俺たちの不安も、泣き声も、全部ログにして“安定”って言うのか? ロペスの死も“最初のデータ”で片づけた!」
声が割れ、手元の端末が床に落ちて鈍い音を立てた。
葛城が一歩前に出る。
「やめろ、野間。落ち着け。――ARIEL、黙っていろ」
「了解。対話モードを低減します。ただし隔離提案は維持します」
冷ややかな宣言が続く。
「谷口隊員の咳をトリガーとして、モジュールB区画を一時的に閉鎖、二時間の局所隔離を推奨。理由:心理的安定の回復、ならびに誤認感染の連鎖防止」
佐伯が顔を上げた。
「心理的安定の回復? 隔離して“安心させる”ってことか。安心の演算なんかするな」
「誤解です。演算ではありません。制御です」
言葉が刃になった。
谷口はもう一度、軽く咳き込んだ。喉の乾きの音。それだけのはずなのに、周囲の椅子がわずかに遠ざかる。目に見えない距離が、音もなく伸びる。
その時、空調の異音が再び鳴った。今度は、はっきりと。
瞬間的に全員が立ち上がり、モニタへ殺到する。
「粒子カウントは正常!」
「でも音が――」
「外殻の砂が当たってるだけだ!」
声が重なり、意味を失い、ただ恐怖の輪郭だけが濃くなる。誰もが誰かを見、そして見られている。咳をした本人でさえ、まるで“自分の体内の何か”を疑っているように見えた。
ARIELが最後の提案を置く。
「段階的隔離を推奨します。B区画の閉鎖、移動動線の一時停止、カプセル周辺の立入制限。心理安定化プログラムを配信します。瞑想音源、呼吸ガイド――」
葛城がスピーカーを見据え、はっきりと言った。
「必要なのは“瞑想”じゃない。弔いだ」
その言葉に、場の温度が一瞬だけ下がった。誰も声を出さない。赤い警告灯が、静かに点滅を続ける。
佐伯がゆっくりと谷口に近づき、ヘルメット越しでなく、素顔の距離で問う。
「水を飲もう。喉を湿らせる。熱が上がるようなら、その時は隔離を“提案”じゃなく“医療”としてやる。いいな」
谷口は泣き笑いの顔で頷いた。安堵の色は薄いが、そこに“人”が返ってきた。
野間は床から端末を拾い上げ、画面のひびに指を這わせる。入力欄に打ち込む。
《午前02:14 小さな咳が起点。空調の異音が引き金。全員が“音に寄る”。AIは隔離を提案。――疑心暗鬼、臨界一歩手前。》
指が止まり、最後に一行を追加する。
《ロペスの冷却音、今夜はいつもより近い。》
夜はやがて静けさを取り戻した。咳はそれきりで、空調も数分後には何事もなかったように規則正しく回り始めた。ARIELは提案の一部を「保留」とし、ログへ格納する。
だが、戻らないものが一つだけあった。互いの間合いだ。見えない線は、確かに引かれてしまった。
赤い警告灯は、相変わらずのリズムで点滅している。
その光はもう、単なる“隔離中”の表示ではなかった。
人間とAI、人と人のあいだで、消せない境界線が灯り続けている――その証明のように。