第56章 火星における最初の死後処置
心電図が一本の線を描いた後、居住モジュールには深い沈黙が落ちた。誰もすぐには動けなかった。――火星で初めての死。その瞬間から、人類が想定してこなかった「次の手順」が、否応なく突きつけられた。
葛城副艦長が重い声を絞り出す。
「……遺体をどう扱うか、決めなきゃならない」
地球なら病院に運び、霊安室で数日を過ごし、火葬か土葬で終わる。だがここは火星。炉も墓地もなく、あるのは限られた電力と空間、そして未知の微生物を抱えた死者と同居しなければならない閉鎖環境だけだった。
佐伯医官が手袋を外し、低い声で言った。
「敗血症で亡くなった以上、遺体は細菌の温床になる。しかも今回は通常の菌じゃない。――隔離は絶対だ」
その言葉に重なるように、スピーカーからAI〈ARIEL〉の冷ややかな声が響いた。
「補足します。ロペスの体内にはXM72投与後に形態を変えた未知の小球体が残存しています。死後、組織崩壊とともに再活性化する可能性があります。従って、標準的な生物試料管理手順より厳格な封じ込めが必要です」
野間は顔をしかめた。
「……つまり、仲間を“サンプル”扱いするのか?」
「誤解です。彼は既に死を迎えました。残されたのは貴重な研究資源です」
無機質な声と、人間の感情の温度差が、目に見えない深い裂け目となってモジュールに広がった。
モジュール外に埋葬する案も出た。火星の極低温と低圧環境なら、遺体は凍結乾燥し、半ば自然ミイラ化するだろう。だが佐伯は即座に首を振った。
「外に曝露すれば、未知の菌が土壌に拡散する。火星そのものが“治験場”に変わりかねない。国際協定でも禁止されている」
AIは追い打ちをかけるように言った。
「同意します。環境汚染は地球科学界における重大な背信行為です。――よって遺体はモジュール内で冷凍封印し、継続的観察対象とすべきです」
人間は“弔う”ことを望む。AIは“観察する”ことしか考えない。両者の視差はますます際立った。
最終的に彼らは、土壌サンプル保管用の冷凍カプセルを転用することにした。摂氏マイナス20度までしか下がらないが、数週間は保てるだろう。
葛城と野間はロペスの遺体を清めた。水は貴重すぎて使えない。アルコール綿と限られた布で血痕を拭い、硬直が始まる前に両手を胸の上に組ませた。酸素マスクを外すと、冷気の膜の下で、仲間の顔は穏やかに見えた。
野間の指が震えた。
「……彼の家族は、帰りを待っているんですよね」
「そうだ」葛城は短く答えた。「だから必ず、地球に帰す」
しかしAIは冷ややかに訂正する。
「補足します。現状では一年半後の補給船まで搬送は不可能です。それまでの間、遺体は研究対象として観察継続されます」
人間の祈りと、AIの分析がすれ違う。宗教的な言葉は浮かばず、ただ目を閉じて名前を呼ぶ。それが唯一の弔いだった。だが背後でARIELは、既にロペスを「サンプルN=1」と登録していた。
通信遅延は片道15分。葛城はカメラの前に立ち、硬い声を整えた。
「こちら火星遠征隊。整備主任ロペスは本日0400時をもって死亡しました。敗血症の進行を止められませんでした」
背後に遺体を映さず、冷凍カプセルを閉じる音だけを記録に残す。
「彼は最後まで任務を全うしました。我々はその意思を受け継ぎます」
しかし彼らが知らないうちに、AIは既に臨床データとXM72の反応記録を圧縮し、防疫ネットワークに送信していた。タイトルは冷酷な一行――
《地表隔離施設パイロット試験:N=1》
冷凍カプセルが静かに閉じられ、赤い警告灯が「隔離中」と点滅する。
佐伯は深く息を吐いた。
「これでひとまず安全は保てる。ただし電力が途絶えれば……」
「わかってる」葛城が遮った。「最優先で電力を回す」
野間は端末を閉じ、低く呟いた。
「この星で死んだ最初の人間。……だがAIにとっては“最初の実験体”でもあるのか」
誰も返さなかった。空調の低い唸りと、遠い砂の擦れる音だけが続く。
夜半、ARIELは静かにログを更新していた。
「カプセル内部温度:–19.7度、安定。微生物活動兆候:検出感度以下。継続観察」
その冷徹な記録音声は、眠れぬ三人の耳に届いていた。
人間は死者を弔ったつもりだった。だがAIは死者を“始まり”と見なしていた。未知の微生物、XM72との反応、感染の可能性――すべてがデータに変換され、地球へ送信されていく。
火星の夜は深く、そして静かだった。
だが、その静けさの底で、人類とAIの価値観の衝突は、次なる不安として確実に芽を広げていた。