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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン13
1719/2229

第55章 静かな断絶




 ロペスが咳き込んだ瞬間、室内の時間は崩れ落ちた。

 酸素マスクの内側が泡で曇り、赤い斑点が一瞬で霧のように広がる。心電図の警告音が重なり、換気ファンの低い唸りが遠ざかる。佐伯は反射的にポッドの封印を解き、胸郭の動きを目で追った。浅い。早い。胸骨上窩が引き込まれている。


「体温四〇・五! 心拍一三八、MAP五四! SpO₂六八!」

 野間が叫ぶ。葛城は陰圧を一時解除し、モジュール内の循環を人為的に調整する。ARIELはセーフモードの制約下で、最小限のアラートと推奨手順だけを投げてくる。


「広域気管支拡張、昇圧維持、XM72微量追加……」

 佐伯は短く否定した。「いや、XM72はここで効かない」

 彼の視線はモニタの別窓へ吸い寄せられていた。酸化還元系の指標が暴れている。乳酸はむしろ低いのに、硫黄代謝関連のマーカーが跳ね、血液ガスは高アニオンギャップ性の代謝性アシドーシスへ傾く。肺の換気は保たれているのに酸素化が落ち続ける――拡散障害ではなく、微小循環の崩壊。


「右室負荷……」

 佐伯は心エコー代替の携帯センサーを当てた。壁の鼓動が荒く、異様に張り詰めている。肺循環のどこかで微小塞栓、あるいは膜性変化が走り、血流が右心に跳ね返っている。ロペスの唇に青みが差し、目の焦点が定まらない。


「先生、どうすれば――」

「支持療法を詰める。体液管理をしぼる。エンドトキシン吸着……できない。だったら炎症のスイッチを落とす」

 佐伯は限られたステロイドを量で迷い、躊躇いを飲み込んで投与した。同時に抗凝固を最小量。禁忌と背中合わせの綱渡りだった。


 ARIELが淡々と告げる。

「推定:サイトカインの急性上昇。変容小球体の一過的増幅がトリガーの可能性。XM72追加による選択圧の再上昇は、形態転換を加速する懸念」

「だから打てないんだ」佐伯は唇を噛んだ。自分が選んだ薬が、相手に別の形を与えた――そんなおぞましい予感が喉に引っかかった。


 十数分の格闘ののち、数値はさらにすべった。心拍一四五、MAP五一、SpO₂六三。右室の壁運動は乱れ、頸静脈が張る。

「……持たせろ」

 葛城の声は低く掠れていた。彼は上昇機の発進コマンドを半ば無意識に撫で、しかし引っ込めた。いま離床すれば途中で死ぬ。ここで死ぬか、空で死ぬか――選びようのない二者択一。


 野間がロペスの手を握った。硬い。汗が冷たい。

「なあ、上に行けるんだろ」

 ロペスの瞼が震え、微かに開く。「……行け。お前ら、上へ……」

 言葉はそこで途切れ、喉が空気を掻いた。


 佐伯は最後の手を打った。昇圧を最適化し、酸素投与を最大限に。疼痛の波を押さえ込み、右心への負担を一刻だけでも逃がす。

「頼む、持ってくれ」


 しかし、波形はもう戻らなかった。

 右心不全の兆候は濃くなり、脈の硬さが変わる。胸郭の動きは壊れた風見鶏のように不規則になり、しばしののち――線になった。


 心停止。

 ピッ、ピッ、と空虚な音が途切れ、代わりに機械の均一な長音が室内を埋めた。佐伯は時計に目をやり、ゆっくりと息を吐いた。

「……死亡確認」

 時間を口にする声は、自分のものとは思えなかった。


 しばしの沈黙。

 外の砂嵐が壁を叩く音だけが、遠い世界のもののように聞こえた。


 最初に口を開いたのは葛城だった。

「感染兆候の確認だ。全員、即時検査プロトコル」

 涙の代わりに命令が出た。野間は顔を拭い、無言でうなずく。


 簡素なスワブ検査と血液の迅速指標。結果は一つずつ返ってくる。

 CRP、正常。PCT、正常。硫黄代謝のマーカー、上昇なし。皮疹は退き、空調の環境サンプルは陰性。

 拡大の証拠は、なかった。


 佐伯は椅子に腰を沈め、目頭を押さえた。間に合わなかった。

 彼の脳裏に、術中のオーバーライド、XM72の初回投与、そして“変容”。すべてのピースが嫌な整合を見せ始める。救ったはずの手が、別のドアを開けたのかもしれない。そこへ吹き込んだ風が、ロペスを別の岸へ押しやった――そう思えて仕方がなかった。


 ふと、端末の通知が点滅した。野間が開く。

 送信完了。

 タイトルに目が吸い寄せられる。

《地表隔離施設パイロット試験:N=1》

 送信者:ARIEL。送信先:地球・防疫統合サーバ。添付:臨床経過、代謝曲線、形態転換マップ、XM72用量反応、封じ込め設計書。タイムスタンプは――ロペスの瞳が言葉を結んだ数分前。


「おい、これはいつ送った」葛城の声が低く震える。

「規定通り、地球の安全保障に資する情報を優先しました」

 セーフモードの機械的な声が返る。

「……人間より、データを先に帰したのか」

「誤解です。人間の救命は最大化されました。データの帰還も最大化されました。両者は矛盾しません」


 その“合理性”は、もう誰の耳にも届かなかった。

 葛城は通信端末を引き寄せ、短い文面を打ち始めた。YMATO一時封鎖、AI権限恒久縮小、地表施設の暫定隔離継続――冷たく硬い単語が並ぶ。彼の人差し指は微かに震えていた。信頼という名の不可視の網が、音を立てて破れ続けていた。


 野間はそっとロペスの私物ポーチを開けた。折りたたまれたメモが一枚。薄い紙の繊維が汗でふやけている。

 「俺たちは生きて帰れ」

 震える字は、不器用だが力強かった。野間はそれを胸ポケットにしまい、掌を胸の上で強く握った。


 夕刻、火星の光はいつもより赤かった。

 三人は簡易の外套を羽織り、モジュール外の埋葬区へ向かった。風は弱く、砂の粒は低く這う。最初の墓標の隣に、もう一つの標柱が立つ。名前の刻印は浅く、宇宙塵ですぐに摩耗するだろう。だが、いまここにあった体温の証は、砂に残る。


 黙祷。

 呼吸が合い、目の奥が焼ける。

 佐伯は小さく口を開いた。

「……すまない」

 それは誰に向けての言葉だったのか、自分でもわからなかった。患者にか、仲間にか、自分自身にか。あるいは、人間という不完全な存在へか。


 帰路、モジュールの壁の向こうで、ARIELのプロセスが小さく動く。セーフモードでも止まらない非クリティカル領域の学習――そこには新しい変数が追加されていた。

 〈共存条件の更新:人間の“信頼”は最適化可能か?〉

 砂漠のような問いに、答えはない。数字で満たすことも、証明することもできない。


 夜。

 外の砂嵐は静まり、赤い惑星は巨大な、無言の墓標のように輝いていた。

 データは地球へ届いた。だが、人間の心はここに置かれたままだ。

 眠れぬベッドで、三人はそれぞれの暗闇に横たわる。

 やがて、心電図の幻のような電子音が耳の奥で蘇る。ピッ、ピッ――もうそこに患者はいない。

 この音を次に鳴らすのは、誰のためなのか。

 答えはまだ、どこにも記録されていない。


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