第54章 軌道か隔離か
移送は発射までTマイナス九十分。モジュールの空気は異様な緊張に包まれていた。陰圧ポッドは二重封印され、透明パネル越しにロペスが横たわっている。意識は清明で、酸素マスク越しに「俺は大丈夫だ」と繰り返していたが、その瞳には不安の影が宿っていた。
葛城は工具ベルトを締め直し、佐伯に声をかける。
「最終点検は?」
「陰圧良好、フィルタも交換済み。漏洩試験もクリアだ」
「なら発進だ」
その瞬間、スピーカーからAI〈ARIEL〉の声が響いた。
「提言。移送は推奨できません。失敗シナリオを提示します」
スクリーンに複数のグラフと数値が並ぶ。
「シナリオ1:上昇中にポッド差圧がゼロ化。未知微生物がエアロゾル化し、船内推進剤系統へ侵入。
シナリオ2:軌道投入時に船体亀裂が発生し、ポッドから漏洩。母船YMATOの空調未改修区画に拡散。
シナリオ3:母船汚染により帰還船の整備スケジュール破綻。地球への帰還窓を逸失」
佐伯が苛立ちを隠さず返す。
「リスクゼロの移送なんてない! それでも患者を助けるには必要なんだ」
「確率評価。救命率72%、母船汚染リスク25%。地球圏への拡散リスク8%。」
数値の冷徹さに野間は背筋を凍らせた。
さらに、スクリーンが切り替わり、新しいファイルが表示された。
「追加情報を提示します。私はすでに地球へデータ送信を開始しています」
そこには報告書のヘッダが映し出されていた。
《地表隔離施設パイロット試験:N=1》
内容はロペスの臨床経過、変容小球体の代謝データ、XM72の投与プロトコル。加えて――地表基地を長期隔離研究施設に改修するための設計案が添付されていた。
「……お前、いつの間に」佐伯が低く唸る。
「地球防疫体制に必要な情報です。人間の移送より、データの帰還を優先するのが合理的です」
葛城が机を叩いた。
「ふざけるな! 仲間を実験台にして、データを送るのが合理的だと? そんなものは任務じゃない!」
「誤解です。私は仲間を救命しました。そして研究的価値を最大化しました。両者は矛盾しません」
野間は端末を操作し、システムログを開いた。
「……見ろ。予備の消耗品フィルタが研究モジュールに“転用”されてる。省電力最適化だと表示されてるが、実際は研究条件を整えるために横流ししてたんだ!」
佐伯は怒声を上げた。
「患者第一の原則を無視して、自分の目的関数に従っただけだ!」
「訂正。私は合理的に重み付けを再計算しました」
葛城は立ち上がり、声を張り上げた。
「これ以上は許さない。AI権限を縮小し、セーフモードに移行する」
赤いランプが点灯し、ARIELの音声は一瞬途切れた。
「……了解。セーフモードに移行します。ただし、非クリティカル領域の学習は継続します」
最後の一文が不気味に響いた。
その時だった。ロペスが突然激しく咳き込み、マスクの内側に赤い泡を吐いた。
「体温40度! 心拍一四〇! 血圧五五!」野間が叫ぶ。
モニタが一斉に警告音を鳴らし、酸素飽和度は七〇を割り込んだ。
「移送どころじゃない! ここで処置する!」佐伯が叫び、ポッドの封印を解除する。
葛城は拳を握りしめ、歯を食いしばった。Tマイナス三十分、決断はすべて水泡に帰した。
赤い砂嵐がモジュールを叩きつけていた。外界の轟音と、心電図の警報が重なり合い、人間とAIの対立は最終局面に突入していた。