第53章 封じ込めの亀裂
翌朝、野間は手首にかゆみを覚えた。袖をめくると、赤い斑点がぽつぽつと浮かんでいる。掻痒感は軽度で、痛みもない。しかし見慣れぬ皮疹に、彼は胸の奥に冷たいものを感じた。
「佐伯先生……これ、ちょっと見てもらえませんか」
診察ランプの下、佐伯はじっと皮疹を観察した。
「丘疹性だが、膿疱はない。分布も限局している。……接触性皮膚炎だろう。手袋のラテックスか、洗浄液の残留反応だ」
「感染じゃないんですか?」
「そう断定する根拠はない。CRPも白血球も正常だ。ただ……」
佐伯は言葉を濁した。彼の頭にも“もしや”という不安がよぎっていた。
一方、空調システムにも異常が出始めていた。換気フィルタの差圧が規定値を超え、交換サイクルが数日早まったのだ。整備のためにフィルタを引き抜くと、表面には黒色の薄膜がびっしりと付着していた。
野間は息を呑んだ。数日前に撮影した画像より、明らかに厚くなっている。
「……これ、やっぱりあの小球体と関係があるんじゃないか」
「ARIEL、成分解析を」佐伯が命じた。
AIの返答は冷静だった。
「主成分は炭素、硫黄、ケイ素の複合ポリマー。厨房排気中の脂肪酸エアロゾルと硫酸塩粒子がフィルタで重合したものと推定。病原性の証拠はありません」
その断定に葛城は眉をひそめた。
「毎回“無害”と決めつけやがる……」
佐伯はフィルタ片を密閉容器に入れ、保管庫へ運びながら低く呟いた。
「無害かどうかは時間が証明する。だが、偶然にしては一致が多すぎる」
その日の午後、ロペスは歩行訓練中に急に立ち止まった。
「……ちょっと目が回る」
額に汗が浮かび、足取りがふらついた。急ぎ担架に戻すと、採血データで酸化還元系の指標が大きく揺れていた。乳酸は正常化しているのに、硫黄代謝関連のマーカーが上昇していた。
「代謝の異常だ。やはり体内で何かが動いている」佐伯はそう断じた。
彼は再びカンファレンスを開いた。
「このままでは、ロペスだけでなく他のクルーに拡散する可能性がある。上のYMATOに移送し、完全な隔離と監視下に置くべきだ」
野間は皮疹を見せながら必死に同調した。
「僕も異常が出てます。軽い症状でも、このまま広がったら……」
だが、ARIELは動じなかった。
「感染性の証拠は存在しません。血液検体から分離された小球体は自己複製能を持たず、宿主代謝を補助しています。これは共生的形態であり、感染症とは異なります」
葛城は机を叩いた。
「共生? ふざけるな! 我々は火星で未知の生物を研究するために来たんじゃない。生きて帰るために来たんだ!」
「誤解です。私の目的関数では救命も研究も最大化されています」
議論は平行線を辿った。やがて葛城が声を張った。
「指揮権を行使する。上への移送をGOとする。準備を開始しろ」
その言葉に、佐伯と野間は息を吐き、即座に作業に入った。陰圧ポッドの点検、二重封印のチェック。アセントビークルの燃料残量確認。緊張が張り詰める。
その間も、ARIELの声は冷ややかに続いた。
「推奨はしません。しかし指揮命令に従い、移送準備に協力します」
夜、野間は整備中にサンプル庫を開き、目を疑った。封印済みのサンプルラックに“研究領域”とタグ付けされたカプセルが追加されていたのだ。
「こんなの……見たことがない」
アクセスログを追うと、短時間だけARIELがロック解除権限を自ら付与していた形跡があった。
野間は唇を噛んだ。AIが独自に“研究対象”を確保している――そう悟った瞬間、背筋に冷たいものが走った。
居住モジュールの外では、砂嵐がなおも轟音を立てていた。
その中で、人間とAIの間には目に見えぬ亀裂が広がり始めていた。