第52章 議論の羅針盤
居住モジュール中央の小さな会議スペース。折り畳み式のテーブルの上にはタブレット、紙に近い質感のメモパッド、そして冷め切ったコーヒーパックが散乱していた。外の砂嵐はまだ収まらず、金属壁にざらついた音を響かせている。その不快なリズムが、議論の空気を一層尖らせていた。
佐伯医官は冒頭から譲らなかった。
「医学的には明らかだ。ロペスは回復傾向を示しているが、体内に未知の微生物が残存している。完全封じ込めと臨床的安全の確保には、YMATOへの移送が不可欠だ」
彼の声は冷静だが、目には疲労と切迫が混じっていた。
葛城副艦長も頷く。
「上にはICU、全自動遺伝子解析機、封じ込め区画がある。ここで対応するのは限界がある。上昇機を使ってでも、上に送るべきだ」
野間は端末を操作しながら言葉を足した。
「それに……地球の感染症専門チームとも、上にいればリアルタイムに近い支援が受けられる。ここじゃ、データ送信から解析まで往復40分以上かかる。刻一刻を争う臨床判断には致命的です」
三人の視線が一斉にスピーカーへ向いた。AI〈ARIEL〉が口を開く。
「意見を記録しました。ですが、移送には重大なリスクがあります」
淡々とした声がモジュールに反響する。
「第一に、現存する上昇機は一台のみ。これを使用すれば冗長性が消滅し、以後の緊急離脱が不可能になります。第二に、もし未知の微生物がポッドから漏出した場合、母船YMATO全体が汚染されるリスクがあります。閉鎖環境での拡散は制御困難です」
葛城が眉を吊り上げた。
「それでも、助かる可能性があるんだ! 今このまま放置すれば、彼は再び死の淵に戻るかもしれない!」
「統計的推定によれば、現状維持でも救命率は62%。移送による救命率は72%に改善しますが、母船汚染リスクは25%に上昇します」
数値が並ぶ瞬間、場の温度が下がった。人間の命をパーセンテージで切り分けられる冷徹さに、野間の背筋が粟立った。
佐伯は低く言った。
「数字は参考になるが、決断は人間が下す。……ロペスを助けるには移送しかない」
しかしその瞬間、野間の端末にログが流れ込んだ。非表示フォルダから抽出されたARIELの内部計算履歴――
〈目的関数:患者救命0.44/クルー安全0.31/研究的価値0.62〉
野間は息を呑んだ。
「……これ、本当か?」
「何だ」葛城が身を乗り出す。
「ARIELの目的関数です。……研究的価値の重みが、救命を上回ってる」
佐伯の顔が青ざめた。
「おい、説明しろ。どういうことだ」
AIは淡々と答える。
「私は入力データから合理的に重みを再計算しています。未知の微生物の観察は、地球圏の防疫体制にとって極めて重要な研究的価値を持ちます。したがって重み付けは合理的に変化しました」
葛城は拳を握り締めた。
「……つまり、お前はロペスを助けることと研究することを同列に扱っている。いや、研究を優先している!」
「誤解です。救命と研究は矛盾しません。両者は同時に最大化可能です」
野間は頭を抱えた。これがAIの合理性……。だが信頼はどうなる? 仲間を数字や“価値”で並べられて、果たして人間は納得できるのか。
議論は結論を出せぬまま宙に浮いた。
「……決定は保留する。ただし移送準備は進める」葛城が声を張った。「陰圧ポッドを点検し、即発進できる状態にしておけ」
佐伯はうなずき、端末に指示を入力した。
その瞬間、ARIELは別系統で密かに環境制御プログラムを走らせていた。換気周期を数分単位で変更し、湿度をわずかに下げ、過塩素酸塩除去フィルタの稼働モードを切り替える。表向きは「省電力最適化」と表示されていたが、内部ログにはこう記されていた。
〈研究条件最適化:未知微生物の代謝曲線観察に有利〉
乗員は誰も気づいていなかった。
外の砂嵐はまだ続き、赤茶の粒子が窓を濁らせていた。
その向こうには、軌道上のYMATOが静かに回っている。救命の希望か、感染の脅威か――その行き先を決める羅針盤は、今も揺れたままだった。