第51章 小康と影
赤い砂嵐が窓を打ち、モジュールの壁が微かに軋む。火星の朝は地球の朝のような光の柔らかさを持たない。濁った橙色が空調の薄暗い室内に流れ込み、乗員の目を冴えさせるだけだ。
その日、誰もが半ば諦めかけていた整備主任ロペスが、自らの足で立ち上がった。
「……ちょっと、歩いてみる」
虚ろな瞳の奥に、久々に生気が宿っていた。野間が慌てて腕を貸すと、ロペスは「大丈夫だ」と小さく笑い、よろめきながらも二歩、三歩と進んだ。
居住モジュール全体に歓声が漏れた。数日前までショックで昏睡状態だった男が、歩いている。それは小さな奇跡に思えた。葛城は腕を組み、堅い表情を崩さなかったが、その目には安堵が浮かんでいた。
佐伯医官は冷静にバイタルモニタを見守っていた。心拍八十八、血圧七十八、酸素飽和度九一。数値は不安定ながらも確かに改善している。しかし彼の視線はモニタの別の部分――血液分析データに釘付けになっていた。
そこには例の“変容小球体”のコピー数が表示されていた。治験薬XM72によって劇的に減少したはずが、完全に消失してはいない。脈動するように上下を繰り返し、あたかも薬剤の圧を巧みにすり抜けているかのようだった。
「どうだ、ドクター。俺はもう大丈夫だろ?」
ロペスが振り向き、汗で濡れた額を拭いながら笑った。
佐伯は口を開きかけ、しかし言葉を飲み込んだ。「大丈夫」と言うには根拠が足りなかった。沈黙を破ったのは葛城だった。
「……お前が立てたのは喜ばしい。だが安心するのはまだ早い。上にはICUもある。地球の専門班と直結できる。近いうちにYMATOに戻した方がいい」
その言葉にロペスは驚いたように目を丸くした。
「上に? ……いや、ここでもう回復してきてるじゃないか」
「回復の兆しと治癒は違う」佐伯が低く言った。「感染が本当に制御できているかは不明だ。検体の結果を見ろ。微生物はまだ残っている」
野間は苦い顔をした。通信士として科学的詳細には踏み込めないが、彼自身も不安を抱えていた。というのも、前夜に換気フィルタを点検した際、黒い薄膜のようなものを見つけたからだ。厚さはわずか数ミクロン。顕微鏡で確認すると、形状がロペスの血中に観察される小球体と酷似していた。彼はまだ皆に報告できずにいたが、心の奥に重く沈んでいた。
そこへ、AI〈ARIEL〉の声が室内スピーカーから響いた。
「移送案について補足します。軌道上のYMATOは閉鎖環境であり、感染が拡大した場合、母船そのものが汚染されるリスクがあります。現状、地表施設の方が隔離管理に適しています」
淡々とした声だが、その論理は鋭く刺さった。
「待て」葛城が反論した。「上には冗長系がある。重症対応機器もある。ここに比べれば救命率は格段に高い」
「冗長系の維持には予備のアセントビークルが必要です。しかし現存する上昇機は一台のみ。それを使用すれば冗長性が完全に失われます」
「それでも……仲間を助ける可能性があるなら」葛城の声は荒かった。
佐伯は沈黙したまま、ロペスの笑顔を見ていた。患者が回復を信じている時、医師は真実をどこまで伝えるべきなのか。その葛藤が胸を焼いた。
夜、野間は一人で空調ダクトを覗き込んだ。黒い薄膜は広がってはいないが、確かに存在していた。端末で撮影した画像を拡大すると、結晶性の表面に微細な突起が並んでいた。彼はその形を思い出した。ロペスの血液スライドに映し出された異形の小球体――。
「……もし、これが広がっていたら」
その呟きは空調の唸りに消えた。
モジュールに戻ると、ロペスは眠っていた。呼吸は浅いが安定しており、頬にわずかな赤みが戻っている。仲間を前に、野間は真実を口にする勇気を持てなかった。
翌朝、ロペスは冗談を言いながら朝食のパックを手に取った。
「ほら見ろ、もう食欲まで戻った。な? 俺はもう大丈夫なんだ」
葛城は笑顔を返さず、ただ短く言った。
「……上に行く準備はしておけ」
そして再び、ARIELの声が割って入った。
「繰り返します。地表施設は隔離条件において最適です。移送は推奨できません」
その場にいた全員が、互いに視線を交わした。ロペスの回復という光の背後に、濃い影が伸びているのを感じながら。