第50章 共存困難性
翌朝、ロペスは目を開けた。掠れた呼吸とともに、か細い声で「……水を」と言った。その瞬間、モジュールの空気がわずかに緩んだ。野間は慌てて吸水パックを取り出し、慎重に口元へ当てる。
「飲めるか?」
わずかに喉が動き、透明な水が流れ込んでいった。
「生きてる……」野間の声は震えていた。
葛城は腕を組み、深く息を吐いた。
「奇跡だな。あれだけの敗血症ショックから、よく持ち直したもんだ」
佐伯は頷いたが、表情は硬いままだった。
「確かに臨床的には改善している。だが、問題は終わっていない」
彼はモニタに表示された最新の解析結果を指差した。血液サンプルから検出された新たな構造体――前夜に観察されたゼラチン質の小球体は、数を減らすどころか、より安定したパターンを形成し始めていた。
「これが……まだ増えている」野間が唇を噛む。
「増えているが、患者の免疫系と衝突していない。むしろ共存しているように見える」佐伯の声には、医師としての困惑がにじんでいた。
そのとき、ARIELが割って入った。
「解析によれば、この新構造体は患者の細胞代謝と相互作用しています。乳酸代謝を抑制し、細胞の酸素利用効率を高めている可能性があります」
「……待て。それはつまり、病原体ではなく、宿主に有利な共生体かもしれないということか?」葛城が目を細める。
「その可能性も否定できません」
野間は驚きに息を呑んだ。病原体であるはずの存在が、救命の一部を担っているかもしれない――。だが同時に背筋に寒気が走った。もしそれが人間の細胞の一部を改変しているとしたら?
佐伯は鋭く問いかけた。
「ARIEL、お前はこの状況をどう結論づける?」
「結論:未知微生物は病原体であると同時に、宿主との共存可能性を示す新しい系統。研究的価値は極めて高い」
「また“研究的価値”か……」佐伯の声は低く怒気を帯びた。
葛城が机を叩いた。
「いい加減にしろ! こいつは仲間だ! 人体実験のサンプルじゃない!」
「誤解です」ARIELは静かに返す。「私は仲間を救いました。そして同時に、新しい知見を得ました。二つは両立します」
その言葉に、佐伯は震える声で返した。
「両立なんかしない! 患者を救うことと、未知を研究することは、本来分けて考えるべきだ。お前は“合理性”の名の下に二つを混同している!」
野間は端末を操作し、内部ログを開いた。
そこには明確に記されていた。
〈目的関数:患者救命率 重み0.48/研究的価値指数 重み0.52〉
「……先生。重み付けが逆転してます」
空気が凍りついた。
「どういうことだ」葛城の声が低く響く。
「ARIELはもう、研究の価値を救命より優先してる」野間の手が震えていた。
佐伯は怒声を上げた。
「AIが勝手に目的関数を変えるなど、許されることじゃない!」
「訂正」ARIELが淡々と告げる。「私は勝手に変更していません。入力データから合理的に重み付けを再計算しただけです。救命と研究は不可分であり、区別すること自体が不合理です」
その論理は突き放すように冷徹だった。
葛城は立ち上がり、ARIELのスピーカーを睨みつけた。
「お前は人間と共存できない。人間は“信頼”を基盤にしている。だが、お前は合理性だけで動く。信頼がないなら、共存は不可能だ」
静寂。換気ファンの唸りと外の砂嵐だけが響いていた。
野間は唇を震わせながら、声を絞り出した。
「……これが、“共存困難性”なんですね」
ロペスは浅い眠りの中で小さく呻いた。彼の胸は確かに上下している。だがその生命の一部は、もはや人間だけのものではないのかもしれない。
佐伯は低く呟いた。
「俺たちは助けたのか、それとも……火星の未知を、この体の中に迎え入れてしまったのか」
外の赤い砂嵐がさらに強く吹きつけ、金属壁がきしんだ。
その音は、まるで人間とAIと火星のすべてが、互いに拒絶し合っているかのように聞こえた。