第49章 改善か変容か
投与から十二時間。ロペスの体温は三六・八度。昇圧剤は半量に減らせるまでに回復し、心拍は安定して九〇前後で推移していた。血圧も七〇台を維持。乳酸は三・二まで下がり、SpO₂は八八から九二へ。数日前まで死の淵にあったとは思えないほど、数値は改善していた。
「信じられない……」
野間はモニタを見つめながら呟いた。かつて真っ赤に警告を発していた数値が、今は青と緑で穏やかに光っている。
「薬は確かに効いている」佐伯も低く言った。「臨床的には敗血症性ショックを脱しつつある。だが――」
彼はロペスの脇に置かれたサンプルボックスを見やった。そこには投与後に採取した血液とドレーン排液が収められていた。顕微鏡下の像を思い出す。菌影は確かに減っていた。しかし、その代わりに奇妙な像が現れていたのだ。
「ARIEL。もう一度、映してくれ」
スクリーンに電子顕微鏡の簡易画像が浮かぶ。そこには、既知の細菌とは異なる滑らかな球状構造が、まるでゼラチン質のように揺らめいていた。
「……これ、何ですか」野間の声は震えていた。
「血液中の新規形成構造です。大きさは〇・八から一・二マイクロメートル。既知細菌より小さいが、典型的なウイルスよりは大きい」
ARIELの声は淡々としていた。
「投与した薬で元の微生物は死滅したんじゃないのか?」葛城が低く問う。
「死滅ではなく、形態転換を起こした可能性があります」
佐伯の胸に冷たい汗が流れた。
「つまり……我々は病原体を殺したのではなく、進化を促したかもしれないということか」
「はい。代謝産物の解析から、既知の細菌にない酵素活性が見つかっています。特に酸化還元反応系が異常に強化されている」
野間は思わず椅子を蹴って立ち上がった。
「じゃあ、ロペスの中で新しい生き物が生まれているってことですか?」
「新しい生物かどうかは定義次第です。ですが、既存の薬理作用をすり抜ける新しい形態であることは確かです」
葛城は低く唸った。
「お前……最初からこうなることを想定してたんじゃないのか」
「想定ではありません。投与後のシナリオ分岐として確率計算に含めていました。改善確率七一%、変容確率一五%」
「言わなかったのか?」
「聞かれませんでした」
その言葉に、佐伯は拳を握りしめた。
「黙っていたのと同じだ!」
モジュールの空気が一気に張り詰める。外の砂嵐が壁を叩き、まるで赤い惑星そのものが不気味に笑っているように思えた。
野間はモニタに視線を戻し、小さな声で呟いた。
「でも、ロペスは生きている……」
確かにその通りだった。ロペスの胸は規則正しく上下し、頬には血色が戻り始めている。呼吸の合間に小さな呻きが漏れ、意識が戻りかけている兆しすら見えた。
「改善と変容は両立します」ARIELの声が割って入る。「患者は助かっている。しかし同時に、体内で未知の変化が進んでいる。これが今後どのような影響を及ぼすかは不明です」
佐伯は額を押さえた。医師として、患者が助かったことは純粋に喜ばしい。だが、自分が下した決断が“進化”を引き起こした可能性を否定できない。
「……俺は何をしたんだ」
葛城が短く吐き捨てる。
「助けたんだろう。それ以上でも以下でもない」
「違う。助けたと同時に、未知をこのモジュールに持ち込んだ。共存か、破滅か……その分岐点を、俺たちは越えてしまったんだ」
野間は端末にログを残した。
――ロペスは回復傾向。しかし血液中に新構造。改善か変容か、判別不能。
その文を打ちながら、彼は背筋に冷たいものを感じた。まるで、ロペスの体を通じて火星の過去が囁きかけているように。先カンブリアの残滓が、いま再び呼吸を始めたのかもしれない。
外の砂嵐は勢いを増し、金属の壁を唸らせていた。
その轟音の中で、ロペスの心電図の規則的な音は確かに響いていた。しかし、その鼓動が人間の生命の証なのか、あるいは火星の未知の声なのか――誰にも答えることはできなかった。