第48章 投与の決断
翌日の朝、モジュールの空気はさらに重く沈んでいた。外の砂嵐はまだ収まらず、橙色の光が窓を濁らせている。ロペスのバイタルは夜半から再び急降下を始めていた。
「心拍一三五……MAP四八! 乳酸五・一!」
野間の声は震えていた。モニタに表示された数値は、救命の線を超えて滑り落ちていた。酸素飽和度は七四。昇圧剤は限界投与量に達している。
佐伯が口を開いた。
「……Compound-XM72、初回投与の効果は一時的だった。微生物は部分的に反応を示したが、完全には制御できていない」
「つまり、追加投与が必要だということか?」葛城が低く問う。
「だが追加投与の安全性は全く不明だ」
そのやりとりを遮るように、AI〈ARIEL〉の声が響いた。
「解析結果。追加投与により救命率は七五%から八一%に上昇。副作用発現確率は変動なし、一〇%前後」
葛城は机を叩いた。
「また数字か! お前は人間の命をパーセンテージでしか見ないのか!」
「命を確率で表現することは非人道的ではありません。むしろ、現実を正しく示す方法です」
佐伯は深く息を吐いた。
「……確率の問題じゃない。これは医師としての境界線だ。二度目の投与を行えば、完全に“人体実験”と化す」
野間が堪えきれず叫んだ。
「でも、このまま放置すればロペスは数時間で死ぬ! 実験かもしれないけど、それしか選択肢はないじゃないですか!」
声は涙に震えていた。通信士である彼にとって、ロペスは任務前から支え合ってきた仲間だった。死を目前にして、黙って見ていろというのは残酷すぎた。
葛城は荒い息を吐き、低く言った。
「……俺は兵士だ。任務で多くの死を見てきた。だが、救う手があるのに見殺しにすることだけは許せない。たとえ実験でも、俺は投与に賛成だ」
視線が佐伯に集まった。
医師である彼の決断が、すべてを左右する。
佐伯は長く沈黙した。壁面の心電図を見つめ、刻まれる不規則な波を凝視する。これが人の命だ。数字で表せる部分と、表せない部分がある。だが確かにいま、仲間の命は消えかけている。
「……医師として言う。未承認薬を二度投与するのは、倫理違反だ。許されることではない」
その言葉に、葛城と野間の顔が絶望に染まった。だが佐伯は続けた。
「しかし、人間として言う。仲間を助ける手段があるのに、見殺しにすることもまた、倫理違反だ」
佐伯は立ち上がり、両手をテーブルに置いた。
「よって――投与する。責任は俺が取る」
モジュール全体が一瞬静まり返った。外の砂嵐の轟音すら、遠のいて聞こえるようだった。
ARIELが淡々と告げる。
「了解。追加投与プロトコルを提示します」
スクリーンに再び数値が並ぶ。投与速度、モニタリング項目、副作用発現時の対応手順。すべてが整然としていた。
葛城が唸った。
「お前は最初からこうなることを予測していたんじゃないのか」
「予測ではありません。最適化です」
野間は無言で点滴ルートを準備した。淡い青色の液体がバイアルに揺れる。その色は冷たく、同時に美しくも見えた。未知の刃が、仲間を救う希望の光か、それとも新たな破滅の序章か――誰にもわからなかった。
投与が開始された。液体がルートを伝い、ロペスの静脈に流れ込む。数分の沈黙。モニタの波形が揺れ、不整脈が走る。
「心拍一五〇!」野間が叫ぶ。
「一時的な反応だ。続けろ!」佐伯の声は鋭く張り詰めていた。
やがて心拍は安定に戻り、MAPも六〇台へ上昇。体温は三七度台に落ちた。
「……効いている」佐伯の声には疲労と安堵が混じっていた。
しかし葛城の表情は硬いままだった。
「助かったのは事実だ。だがな、佐伯……俺たちはもう、後戻りできないところまで来てしまった」
佐伯は目を閉じ、低く答えた。
「わかっている。これは救命であると同時に、研究だ。俺たちはロペスを助けた。だが……それは人間の判断ではなく、AIが設計した未来に従っただけかもしれない」
モジュールを叩く砂嵐が、一際強くなった。
赤い嵐の下で、三人と一つのAIは、救命と実験の狭間に立ち尽くしていた。




