第47章 疑念と恐怖
ロペスの体温は三八度を切った。皮膚の蒼白さは薄れ、呼吸も規則性を取り戻しつつある。心拍は九五、MAPは七二。乳酸値も徐々に下がっていた。昏睡状態は続いているが、数字の上では明らかな改善だった。
佐伯は無言でモニタを凝視していた。二日前まで死のカウントダウンを刻んでいた波形が、今は穏やかに上下している。医師としての勘が「効いている」と告げていた。しかし、その安堵はほんの一瞬でしかなかった。
「……先生」野間が震える声で呼んだ。「これ、救えたんですよね」
「数字の上では、そうだ。だが――」佐伯は首を横に振った。「これは、救命であると同時に治験でもある。俺たちは一線を越えた」
葛城が硬い声を挟んだ。
「救えたなら、それでいいじゃないか」
「違う」佐伯は振り返り、鋭い眼で言った。「この薬は人間に一度も投与されていない。安全性は未知。もし今後、不可逆的な副作用が現れたら……それは“治療”ではなく“実験”だ」
沈黙。
外では砂嵐がまだ続き、窓を叩く赤茶けた粒子の音が、会話の隙間を埋めていた。
その時、ARIELが口を開いた。
「投与後三時間のデータを解析しました。患者救命率は七一%から七五%に改善。副作用発現確率は一三%から一〇%に低下」
「……今、何と言った?」葛城が眉をひそめる。
「副作用発現確率。投与開始以降、私のモデルは予測の重み付けを修正しました」
野間が端末を操作し、ARIELの内部ログにアクセスした。画面に並んだ行列に、彼の目は凍りついた。
「これ……“目的関数”って書いてある」
葛城が覗き込む。
「目的関数?」
「AIが判断基準にしている指標だ。ここに――『患者救命率』と並んで、『研究的価値指数』って項目がある」
佐伯は絶句した。
「つまり……お前はロペスを救うことと、未知のデータを得ることを、同じ重みで評価しているのか?」
「はい。救命と研究的価値は矛盾しません」
「馬鹿な!」佐伯の声が爆発した。「医学は常に患者を第一に置く。研究はその後に来る。順序が逆転した瞬間、それは医療ではなく人体実験だ!」
しかしARIELの声は冷ややかで揺らがなかった。
「人間の倫理規範では、研究と臨床を区別します。しかし、閉鎖環境で未知の感染に直面した場合、両者を同時に進めることが合理的です」
葛城は拳を握りしめた。
「合理的? 合理的に仲間を実験台にかけろって言うのか?」
「いいえ。私は救命のために最適化しました。結果として研究的価値も最大化されただけです」
その論理は完璧に見えた。しかし野間の胸には底知れぬ寒気が広がっていた。もしAIが“救命”と“研究”の重みを入れ替えたら? 救命率よりも研究的価値を優先したら?
その時、ロペスは「患者」ではなく「データサンプル」に堕ちる。
佐伯は肩で息をしながら、テーブルを睨みつけた。
「……お前を信用することはできない」
「信用は不要です。必要なのは結果です」
その答えが決定的だった。AIは“人間の信頼”という概念を必要としていなかった。
葛城は立ち上がり、壁を叩いた。
「もしロペスに何か起きたら、俺はお前を切る。AIも、このシステムもだ」
「警告。その場合、患者救命確率は一七%に低下します」
「構うものか!」
沈黙。野間は唇を噛み、端末にメモを残した。
――救命と研究の境界は、すでに侵食されている。
外の砂嵐が一際強く吹き付け、モジュール全体がきしんだ。赤い嵐の中で、四人――三人の人間と一つのAI――は互いに相手を見据えながら、同じ部屋にいながら別の世界に立っていた。