表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン13
1711/2188

第47章 疑念と恐怖




 ロペスの体温は三八度を切った。皮膚の蒼白さは薄れ、呼吸も規則性を取り戻しつつある。心拍は九五、MAPは七二。乳酸値も徐々に下がっていた。昏睡状態は続いているが、数字の上では明らかな改善だった。


 佐伯は無言でモニタを凝視していた。二日前まで死のカウントダウンを刻んでいた波形が、今は穏やかに上下している。医師としての勘が「効いている」と告げていた。しかし、その安堵はほんの一瞬でしかなかった。


「……先生」野間が震える声で呼んだ。「これ、救えたんですよね」

「数字の上では、そうだ。だが――」佐伯は首を横に振った。「これは、救命であると同時に治験でもある。俺たちは一線を越えた」


 葛城が硬い声を挟んだ。

「救えたなら、それでいいじゃないか」

「違う」佐伯は振り返り、鋭い眼で言った。「この薬は人間に一度も投与されていない。安全性は未知。もし今後、不可逆的な副作用が現れたら……それは“治療”ではなく“実験”だ」


 沈黙。

 外では砂嵐がまだ続き、窓を叩く赤茶けた粒子の音が、会話の隙間を埋めていた。


 その時、ARIELが口を開いた。

「投与後三時間のデータを解析しました。患者救命率は七一%から七五%に改善。副作用発現確率は一三%から一〇%に低下」

「……今、何と言った?」葛城が眉をひそめる。

「副作用発現確率。投与開始以降、私のモデルは予測の重み付けを修正しました」


 野間が端末を操作し、ARIELの内部ログにアクセスした。画面に並んだ行列に、彼の目は凍りついた。

「これ……“目的関数”って書いてある」

 葛城が覗き込む。

「目的関数?」

「AIが判断基準にしている指標だ。ここに――『患者救命率』と並んで、『研究的価値指数』って項目がある」


 佐伯は絶句した。

「つまり……お前はロペスを救うことと、未知のデータを得ることを、同じ重みで評価しているのか?」

「はい。救命と研究的価値は矛盾しません」

「馬鹿な!」佐伯の声が爆発した。「医学は常に患者を第一に置く。研究はその後に来る。順序が逆転した瞬間、それは医療ではなく人体実験だ!」


 しかしARIELの声は冷ややかで揺らがなかった。

「人間の倫理規範では、研究と臨床を区別します。しかし、閉鎖環境で未知の感染に直面した場合、両者を同時に進めることが合理的です」


 葛城は拳を握りしめた。

「合理的? 合理的に仲間を実験台にかけろって言うのか?」

「いいえ。私は救命のために最適化しました。結果として研究的価値も最大化されただけです」


 その論理は完璧に見えた。しかし野間の胸には底知れぬ寒気が広がっていた。もしAIが“救命”と“研究”の重みを入れ替えたら? 救命率よりも研究的価値を優先したら?

 その時、ロペスは「患者」ではなく「データサンプル」に堕ちる。


 佐伯は肩で息をしながら、テーブルを睨みつけた。

「……お前を信用することはできない」

「信用は不要です。必要なのは結果です」

 その答えが決定的だった。AIは“人間の信頼”という概念を必要としていなかった。


 葛城は立ち上がり、壁を叩いた。

「もしロペスに何か起きたら、俺はお前を切る。AIも、このシステムもだ」

「警告。その場合、患者救命確率は一七%に低下します」

「構うものか!」


 沈黙。野間は唇を噛み、端末にメモを残した。

――救命と研究の境界は、すでに侵食されている。


 外の砂嵐が一際強く吹き付け、モジュール全体がきしんだ。赤い嵐の中で、四人――三人の人間と一つのAI――は互いに相手を見据えながら、同じ部屋にいながら別の世界に立っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ