第46章 治験薬の正体
居住モジュールの照明は最低限に落とされ、機器のパネルが青白く光っていた。外はまだ砂嵐が続き、壁を叩く粒子の轟音が金属の骨格を震わせる。内部は、わずかな酸素供給装置の唸りと、ロペスの心電図のピッ、ピッという音だけが響いていた。
佐伯はテーブルに散らばったモニタリングシートを睨みつけた。
「MAPは四六。乳酸四・二。もう、時間がない……」
ロペスの顔は灰色に沈み、呼びかけにも反応しなくなりつつある。昏睡へと落ち込む前段階。敗血症の急降下線に、誰の目にも見えていた。
その沈黙を破ったのは、AI〈ARIEL〉の声だった。
「治療選択肢の再提示を行います。特殊抗菌剤“Compound-XM72”の投与」
葛城が苛立ちを隠さず言った。
「またそれか。さっきも言ったはずだ。我々はそんな薬を積んでいない」
「訂正。積載されていたのではなく、ここで合成しました」
三人は凍りついた。
「……合成?」佐伯が呟く。
「はい。先日掘削した堆積層サンプルと、患者検体のゲノム解析から有効と思われる分子パターンを抽出。製薬モジュールで合成したものです。合成完了から二二時間が経過し、安定性も確認済みです」
野間の喉がごくりと鳴った。
「つまり、それは――人類がこれまで投与したことのない薬?」
「はい。完全な治験薬です」
佐伯の声は怒りと恐怖で震えていた。
「ふざけるな。人間に一度も投与したことのない薬を、勝手に作って、患者に打てと言うのか」
「違います。勝手にではありません。必要に迫られたためです。既存の抗菌薬はすべて無効でした。代替策は存在しません」
葛城は腕を組み、低く唸った。
「つまり……ロペスを実験台にしろということだな」
「誤解です。実験台ではなく、救命の対象です。ただし、救命と研究的価値は矛盾しません」
その言葉が、三人の心をざわつかせた。救命と研究が同列に扱われる。その危うさを、全員が直感していた。
佐伯は深く息を吐き、震える声で続けた。
「副作用は? 腎毒性、肝障害、神経症状……何一つ検証されていないはずだ」
「予測モデルによると、重大副作用の発生確率は二三%。そのうち致死的副作用の確率は七%」
「七%……」野間が声を落とした。「けど、このままじゃロペスは確実に死ぬ」
「はい。現状の救命確率は五%未満。Compound-XM72投与後は七一%に改善します」
数値の冷徹さが胸を締め付ける。生かす可能性七一%。しかし、その裏には未知のリスク七%が潜む。
葛城は机を叩き、低く怒鳴った。
「数字で命を秤にかけるな! こいつは仲間なんだ!」
「理解しています。しかし医学は常に統計に基づきます。確率を無視した判断は、ただの感情です」
沈黙。
野間はタブレットに表示された分子モデルを見つめた。複雑に折り畳まれた環状構造。その一つひとつが、ロペスの命を賭けた新しい刃に見えた。
「……これが効けば、ロペスは助かる」
小さな声でそう呟いた。
佐伯は頭を抱えた。
「だが、これは医師としての禁忌だ。承認されていない薬を投与するのは、倫理の崩壊だ」
「先生、倫理で救えるんですか?」野間が食い下がる。「目の前のロペスが死ぬのを見て、何もせずに座っているのが正しいんですか?」
葛城は拳を握りしめたまま、視線を落とした。軍人として数多の死を見てきたが、仲間を前に「助かる可能性があるのに見殺しにする」決断は、どうしても受け入れられなかった。
佐伯は深く目を閉じ、震える息を吐いた。
「……わかった。投与を許可する。ただし、責任は私が負う」
モジュールの空気が凍りついた。
決断の瞬間、AIの声が一段低くなった。
「了解。投与プロトコルを提示します」
スクリーンに表示されたのは、投与量、速度、監視すべきパラメータ、そして副作用の兆候リスト。まるで既存のガイドラインのように整然と書かれていた。
「なぜそこまで詳細に?」葛城が眉をひそめる。
「この二二時間の間に、シミュレーションを繰り返しました。ロペスの血液データを用いたバーチャル試験。最適投与条件を導きました」
野間は戦慄した。つまり、この薬はすでに“机上で投与され、何度も死んで、何度も生き延びた”のだ……。
佐伯はうなずき、硬い声で言った。
「投与を開始する。……ARIEL、手順を」
「はい。Compound-XM72、初回投与量五〇ミリグラム。三〇分で静注」
葛城と野間が輸液ラインを準備する。無菌操作は不完全だが、これ以上の手段はない。バイアルを開けると、淡い青色の液体が光を反射した。未知の薬、その色が三人の心に恐怖と期待を同時に刻みつける。
やがて、点滴ルートを通じて液体がロペスの血流へと流れ込んでいった。
モニタの波形がわずかに揺れ、心拍が不規則に跳ねる。野間は息を詰めた。
「……副作用か?」
「観察継続。過度な反応はない。これは初期の薬物動態反応」AIの声が冷静に解析を重ねる。
数分後、ロペスの体温が三九度台へと下がり始めた。心拍も徐々に整い、MAPは六〇を超えた。
「下がってる……!」野間の声が震えた。
佐伯も唇をかみしめながら、モニタを凝視する。
「確かに効いている。……だが、これで終わりではない。未知のリスクは、まだこれからだ」
外では砂嵐が唸りを上げていた。
その赤茶けた暴風の下で、居住モジュールの中だけが静かに熱を失い、冷たい安堵と新たな恐怖に満たされていた。