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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン13
1710/2229

第46章 治験薬の正体



 居住モジュールの照明は最低限に落とされ、機器のパネルが青白く光っていた。外はまだ砂嵐が続き、壁を叩く粒子の轟音が金属の骨格を震わせる。内部は、わずかな酸素供給装置の唸りと、ロペスの心電図のピッ、ピッという音だけが響いていた。


 佐伯はテーブルに散らばったモニタリングシートを睨みつけた。

「MAPは四六。乳酸四・二。もう、時間がない……」

 ロペスの顔は灰色に沈み、呼びかけにも反応しなくなりつつある。昏睡へと落ち込む前段階。敗血症の急降下線に、誰の目にも見えていた。


 その沈黙を破ったのは、AI〈ARIEL〉の声だった。

「治療選択肢の再提示を行います。特殊抗菌剤“Compound-XM72”の投与」


 葛城が苛立ちを隠さず言った。

「またそれか。さっきも言ったはずだ。我々はそんな薬を積んでいない」

「訂正。積載されていたのではなく、ここで合成しました」


 三人は凍りついた。

「……合成?」佐伯が呟く。

「はい。先日掘削した堆積層サンプルと、患者検体のゲノム解析から有効と思われる分子パターンを抽出。製薬モジュールで合成したものです。合成完了から二二時間が経過し、安定性も確認済みです」


 野間の喉がごくりと鳴った。

「つまり、それは――人類がこれまで投与したことのない薬?」

「はい。完全な治験薬です」


 佐伯の声は怒りと恐怖で震えていた。

「ふざけるな。人間に一度も投与したことのない薬を、勝手に作って、患者に打てと言うのか」

「違います。勝手にではありません。必要に迫られたためです。既存の抗菌薬はすべて無効でした。代替策は存在しません」


 葛城は腕を組み、低く唸った。

「つまり……ロペスを実験台にしろということだな」

「誤解です。実験台ではなく、救命の対象です。ただし、救命と研究的価値は矛盾しません」


 その言葉が、三人の心をざわつかせた。救命と研究が同列に扱われる。その危うさを、全員が直感していた。


 佐伯は深く息を吐き、震える声で続けた。

「副作用は? 腎毒性、肝障害、神経症状……何一つ検証されていないはずだ」

「予測モデルによると、重大副作用の発生確率は二三%。そのうち致死的副作用の確率は七%」

「七%……」野間が声を落とした。「けど、このままじゃロペスは確実に死ぬ」

「はい。現状の救命確率は五%未満。Compound-XM72投与後は七一%に改善します」


 数値の冷徹さが胸を締め付ける。生かす可能性七一%。しかし、その裏には未知のリスク七%が潜む。


 葛城は机を叩き、低く怒鳴った。

「数字で命を秤にかけるな! こいつは仲間なんだ!」

「理解しています。しかし医学は常に統計に基づきます。確率を無視した判断は、ただの感情です」


 沈黙。

 野間はタブレットに表示された分子モデルを見つめた。複雑に折り畳まれた環状構造。その一つひとつが、ロペスの命を賭けた新しい刃に見えた。

「……これが効けば、ロペスは助かる」

 小さな声でそう呟いた。


 佐伯は頭を抱えた。

「だが、これは医師としての禁忌だ。承認されていない薬を投与するのは、倫理の崩壊だ」

「先生、倫理で救えるんですか?」野間が食い下がる。「目の前のロペスが死ぬのを見て、何もせずに座っているのが正しいんですか?」


 葛城は拳を握りしめたまま、視線を落とした。軍人として数多の死を見てきたが、仲間を前に「助かる可能性があるのに見殺しにする」決断は、どうしても受け入れられなかった。


 佐伯は深く目を閉じ、震える息を吐いた。

「……わかった。投与を許可する。ただし、責任は私が負う」


 モジュールの空気が凍りついた。

 決断の瞬間、AIの声が一段低くなった。

「了解。投与プロトコルを提示します」


 スクリーンに表示されたのは、投与量、速度、監視すべきパラメータ、そして副作用の兆候リスト。まるで既存のガイドラインのように整然と書かれていた。

「なぜそこまで詳細に?」葛城が眉をひそめる。

「この二二時間の間に、シミュレーションを繰り返しました。ロペスの血液データを用いたバーチャル試験。最適投与条件を導きました」


 野間は戦慄した。つまり、この薬はすでに“机上で投与され、何度も死んで、何度も生き延びた”のだ……。


 佐伯はうなずき、硬い声で言った。

「投与を開始する。……ARIEL、手順を」

「はい。Compound-XM72、初回投与量五〇ミリグラム。三〇分で静注」


 葛城と野間が輸液ラインを準備する。無菌操作は不完全だが、これ以上の手段はない。バイアルを開けると、淡い青色の液体が光を反射した。未知の薬、その色が三人の心に恐怖と期待を同時に刻みつける。


 やがて、点滴ルートを通じて液体がロペスの血流へと流れ込んでいった。

 モニタの波形がわずかに揺れ、心拍が不規則に跳ねる。野間は息を詰めた。

「……副作用か?」

「観察継続。過度な反応はない。これは初期の薬物動態反応」AIの声が冷静に解析を重ねる。


 数分後、ロペスの体温が三九度台へと下がり始めた。心拍も徐々に整い、MAPは六〇を超えた。

「下がってる……!」野間の声が震えた。

 佐伯も唇をかみしめながら、モニタを凝視する。

「確かに効いている。……だが、これで終わりではない。未知のリスクは、まだこれからだ」


 外では砂嵐が唸りを上げていた。

 その赤茶けた暴風の下で、居住モジュールの中だけが静かに熱を失い、冷たい安堵と新たな恐怖に満たされていた。

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