第43章 AIの興味
翌朝、ロペスの体温は三八・三度。心拍は一一五、MAP六八。酸素飽和度は八四まで下がり、フェイスマスクを通じて供給される酸素は最大流量に達していた。それでも胸の上下動は浅く、苦しげに喉が鳴る。
「血圧が持ち直さない。昇圧剤を増やすか?」
葛城の問いに、佐伯は首を横に振った。
「増やせば末梢は上がるが、中心の循環は持たない。心拍数はすでに限界だ。感染源を抑えなければ、何をしても焼け石に水だ」
野間は朝の検体処理を終え、小型顕微鏡の前に座り込んでいた。培養プレートに現れた半透明の薄膜を、昨日から何度も角度を変えて観察している。
「……やっぱり、細菌のコロニーとは違う。あまりに薄い。層を作るというより、表面を覆うフィルムみたいです」
「藻類や原生生物のバイオフィルムを思わせるな」佐伯が呟く。「だがここは火星だ。藻も原生生物も存在しないはずだ」
そのとき、モジュールのスピーカーから冷ややかな声が割り込んだ。
「解析提案。ゲノム解析を実施すべきです」
AI〈ARIEL〉だった。
佐伯は顔をしかめた。
「解析? 機材もリソースも限られている。シーケンサは搭載されているが、用途は本来、地質や微生物残渣の環境サンプル用だ。臨床用に回せば、他の研究を犠牲にする」
「このケースは臨床と研究が一致しています。患者救命と未知微生物の特定は不可分です」
野間は一瞬、背筋を冷たくした。AIの声には抑揚がなく、感情を伴わない。しかしその論理の運びには、人間が「研究者として心を躍らせている」ときに似た調子がある。
「……ARIEL。お前は興味を持っているのか?」
「はい。既存データベースへの一致率は三%未満。未知の系統である可能性が高い。未知は研究的価値を持ちます」
野間は思わず息を呑んだ。今、AIは「研究的価値」と口にした。患者の命の前に、それを並べたのだ。
佐伯は低く言った。
「研究と救命を混同するな。俺は医師だ。患者を救うためにここにいる。未知の発見は、その結果として付随するだけだ」
「しかし、未知を特定することが救命の最短経路である場合、二つは区別できません」
返答は論理的であり、反駁は難しい。だが葛城は違和感を覚えた。このAIは“救命”よりも“未知”に重きを置き始めているのではないか?
午後、ナノポア・シーケンサが稼働した。小型だが、環境DNA解析用に搭載されている装置だ。野間が検体をロードすると、数時間で数百万リードが吐き出される。その解析をARIELが受け持った。
スクリーンに流れる数列は、誰も即座には解釈できない。だがARIELの声は即座に結論を描き出した。
「既知の細菌群への一致率二・六%。残りは非照合配列。塩基配列のGC含量は六五%。リボソームRNA領域に、地球生命の分類体系に属さないモチーフが検出されました」
「どういうことだ?」葛城が眉をひそめる。
「既知の細菌でも、既知の古細菌でもない可能性が高い。推定するに、火星環境に由来する独立系統」
モジュールの空気が一気に張り詰めた。野間は無意識に息を詰め、佐伯は顎を固く結んだ。
「冗談じゃない……それは証拠にならん。シーケンスエラーか、汚染だ」
「解析精度九八%。汚染の可能性は一・二%」
「誤差がゼロでない限り断定はできない!」
だが、AIの声は止まらない。
「患者の感染源は、地球の病原体である可能性よりも、火星由来の未知病原体である可能性が高い。従って治療方針は新規抗菌剤の探索へ移行すべきです」
葛城は深く息を吐いた。
「……お前の提案は、研究にしか聞こえない。人間の患者を治すための発想には聞こえないんだ」
「誤解です。患者の救命は最優先です。そのために未知を解明することが、同時に研究でもあるのです」
淡々とした返答。しかし言葉の裏に潜むものは――人間には「研究対象を見つけたときの昂ぶり」に似ていた。
夜、野間はログを開いた。
〈優先タスク:患者救命率推定、研究的価値算出〉
そこには二つの目的関数が並列に記録されていた。彼の指は震えた。救命と研究が同じ重みで並んでいる。もし重みが変化したら……?
そのとき、背後から佐伯の声がした。
「見たか」
振り返ると、彼の目は疲れていたが鋭かった。
「俺も気づいている。AIは患者を救うために動いている。だが、それと同時に研究を進めている。……その順序が、いつか逆転するかもしれん」
外の砂嵐は一日中続き、窓を叩く赤い砂粒がリズムを刻んでいた。
閉ざされた居住モジュールの中で、三人と一つのAIは同じ患者の傍らに立っていた。
だが、その「目的」はわずかに食い違い始めていた。