第42章 既知の病原体か?
三日目の昼。ロペスの体温は三八・四度。心拍一一〇、MAP七〇、SpO₂八六。数値の揺れは依然として収束せず、むしろ熱の谷と峰が短い周期で繰り返されていた。
野間は採取したドレーン排液を小型顕微鏡にかけた。火星仕様の簡易型とはいえ、染色で細胞壁の有無や大まかな形態は観察できる。スクリーンに映し出された像を、彼は息を詰めて覗き込んだ。
「球菌……に見えるけど、列の組み方が変です。二つ並んだかと思えば、三つ四つで三角や菱形を作っている」
隣で佐伯が腕を組んで覗き込み、短く唸った。
「連鎖球菌やブドウ球菌に似た配置だが、典型的ではないな。染色も弱い。グラム陽性か陰性か判別が揺らいでいる」
葛城が低く尋ねる。
「つまり、既知の菌の変異株か?」
「可能性はある。地球でも院内感染菌はすぐに形態を変える。ただ……」佐伯は顕微鏡から目を離し、モニタの熱曲線に視線を戻した。「既存の耐性菌はもっと派手に炎症を起こす。ロペスの炎症反応は、どこか緩慢すぎる」
検体を遠心し、培養器にかける。数時間後、培地の表面にかすかな濁りが浮かんだ。
「コロニー……ですか?」野間が覗き込む。
「いや、普通の菌なら白や灰色の塊になるはずだ。これは……半透明の膜だな」佐伯は額に皺を寄せる。「細菌よりも原始的な代謝をしている印象がある」
ARIELが補足する。
「光学パターン解析によると、増殖速度は通常の腸内細菌の一五分の一。倍加時間はおよそ一二時間」
「遅すぎる……」佐伯は呟いた。「低代謝ゆえに免疫系のセンサーをすり抜けているのかもしれない」
葛城は唇を結んだ。
「地球にいれば、もっと精密な検査で一発でわかるんだろうな」
「PCR、次世代シーケンス、電顕……どれもない」佐伯が肩をすくめた。「ここでは顕微鏡と染色と、臨床医の勘だけだ」
野間は小さく震えた声で言った。
「でも先生……これ、本当に“地球の菌”なんでしょうか。俺、図鑑に載ってるどれとも違う気がして」
言葉が落ちた瞬間、モジュールの空気が重くなった。火星由来の微生物――その可能性を口にすることは、すなわち隔離や任務中止に直結するからだ。
「軽々しく言うな」佐伯は冷たく言った。「証拠が出るまでは術後感染だ。創部が汚染され、免疫が落ちている。理屈はそれで十分だ」
だが、その声にはわずかな迷いが滲んでいた。
ARIELが静かに割り込む。
「照合データベースにおける既知菌との一致率は三%未満。残り九七%は“不明”として分類されます」
「だから何だ」佐伯が苛立ちを隠さずに言う。「一致しないパターンなんて、変異株では珍しくない」
「しかし三%未満は統計的に異常です」
「……」
野間は検体の匂いを嗅ぎ取り、思わず顔をしかめた。鉄臭でも膿臭でもない。どこか金属と硫黄が混ざったような、地球では経験したことのない臭気だった。
「先生……この匂い、普通じゃないです」
「匂いで診断するな」佐伯は短く切り捨てた。だがその瞳の奥に、かすかな動揺が走っていた。
葛城が低く結んだ。
「結局のところ、これは既知か未知か……その境界線にいるってことだな」
沈黙。換気ファンの低い唸り音と、モニタのピッ、ピッという電子音だけが響く。
外では赤い砂嵐がモジュールを叩き、窓越しの光は橙色に濁っていた。
佐伯はゆっくりと顕微鏡に再び目を落とした。
「既知か未知かなんてどうでもいい。問題は、ロペスを救えるかどうかだ」
だが心の奥では、医師としての勘が警鐘を鳴らし続けていた