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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン13

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第41章 微熱のパターン




 手術から四十八時間。ロペスの体温は三七・八から三八・二を行き来していた。術後の炎症反応としては教科書的だが、佐伯は早い段階から「嫌な揺れ方だ」と感じていた。数字の並び方に、線形ではない、妙な“うねり”がある。


「体温、三八・一。心拍一〇四、MAP七二。SpO₂八九……」

 野間が端末に打ち込みながら、モニタを盗み見る。呼吸は速く浅いが、胸腔ドレーンの排液は淡赤で量は安定。腹部のドレッシングに滲出はあるが破綻はない。

「CRP十二・六、白血球一万二千。好中球七六パーセント」

「プロカルシトニン(PCT)は?」

「……〇・三から〇・四で横ばい。上がり方が遅いです」

「そこだ」佐伯は短く言った。「細菌性の敗血症なら、CRPとPCTがもう少し噛み合う。今回は時間相と振幅がずれている」


 AI〈ARIEL〉が静かに補足する。

「バイタル波形解析では、六~八時間周期の微小上昇が検出されています。総熱量は増えていませんが、波形が鋸歯状です」

「データに名前を与えるな」佐伯はため息をついた。「臨床にとって大事なのは“患者の顔色が悪い”という事実だ」


 顔色はたしかに悪い。ロペスの皮膚は蝋のように乾き、口唇は白っぽく、眼窩の陰が深い。ケタミンの痕がまだ時おり表情を曇らせるが、意識は呼びかけに遅れて反応する。

「寒気は?」

「……寒い、けど汗が出る」ロペスはか細く答えた。

 額の汗は冷たく、手指の末端は微妙に冷えている。末梢循環は悪くはないが、良いとも言えない境目だ。


 培養は剥げ落ちた自信をさらに掘った。

「好気・嫌気・真菌、いまのところ陰性。ドレーン排液のグラム染色も目立った菌影なし」

「火星仕様の小型インキュベータで見えないだけかもしれん」佐伯は言いながらも、薄い違和感を拭えない。抗菌薬はセフェムから入り、広域にスイッチしたが、体温の“うねり”は従順に従わない。

 CRPは右肩に上がり、PCTは遅れて追いかける。そのくせ、どちらも頂点の合図を素直に出さない。臨床家の勘の領域で、何かが「違う」と囁いていた。


 昼のカンファは、食堂の隅で立ったまま進んだ。

「抗菌薬はあと九バイアル」野間が在庫表を示す。「投与間隔を延ばせば一週間。標準量なら三日で尽きます」

「間隔延長は耐性と再燃の温床だ。だが標準投与で打ち切りは、敗血症に押し切られる」

 葛城が腕を組む。「地球ならどうする?」

「培養結果で狙い撃ち、ICUで支持療法、場合によっては再開腹、洗浄……。ここでは、手持ちのカードを切る順番のゲームだ」


 ARIELが、壁面の表示に緩やかな曲線を重ねた。体温とCRPとPCT、そして心拍のドリフトを時系列に並べる。

「この位相差は既知細菌のトレースと乖離しています。推定モデルでは低栄養・低増殖速度の感染源が適合度高」

「学会発表みたいな言い方をするな」佐伯は眉根を寄せた。「低増殖なら抗菌薬に反応が鈍いのは道理だが……なぜPCTがここまで平坦なんだ」


 午後、野間がドレーンの処置に入ったとき、ふっと鼻の奥に金気のような臭いが触れた。

「佐伯先生、これ……」

 彼が差し出したガーゼには、微かだが特有のにおい。鉄の匂いでも、膿汁の腐臭でもない。どこか、還元臭に近い。

 佐伯は眉をひそめ、pHストリップをあてがう。

「……弱酸性寄り。術後の血性排液ならこんなものだ。気にしすぎだ」

 言い切りながら、自身の声に微細な空洞ができるのを感じた。**“気にしすぎ”**は臨床で最も危うい言葉の一つだ。


 夕方、ARIELが提案を出す。

「最小限のメタゲノム迅速解析を推奨します。ナノポア・シーケンサは稼働可能。ヒト配列をフィルタリングし、既知データベースに照合」

「そのリソース、どこから捻出する」葛城が問う。

「夜間の非必須系統を三%削減。電力は足ります」

 佐伯は首を横に振る。「検査のための検査はしない。まず抗菌薬の当たりを付けて、支持療法を詰める」


 夜半、体温は一度三七度台に落ちたが、四時間後にまた三八・四へ戻った。谷の形が、通常の解熱と違う。薬効で落ちた温度が、薬効の切れ目より早く戻っている。

「波が早い……」野間が呟く。

「循環量の変動だけでは説明がつかないな」佐伯はロペスの爪床を押し、再充満時間を測った。「末梢は持ち直している。にもかかわらず、中心温が揺れる」


 ARIELが柔らかい光で術後創をスキャンした。熱画像では、ドレッシング下に島状の温度上昇が点在する。均一な炎症ではない。

「局在のない炎症野。拡散/集約のサイクルが短い。推定:宿主側の炎症スイッチと感染源の増殖サイクルが同期していない」

「つまり?」葛城。

「こちらが叩くテンポと、向こうが増えるテンポが違う、ということです」

 野間は背筋に寒気を覚えた。テンポが合わないダンスは、踏み続けるほど足を捻る。


 三日目の朝。PCTがようやく〇・七に上がった。だがCRPはほとんど横ばいのまま、心拍だけが微妙に高い。

「普通は逆だ」佐伯は唇を噛んだ。「炎症の器楽合奏がバラバラだ。指揮者がいない」

「それとも、別の指揮者がいるのかもしれない」野間がこぼす。

「誰だ?」

「俺たちの知らない、別の病原体」


 言葉は冗談めいていたが、誰も笑わなかった。

 ARIELが静かに付け加える。

「提案:サンプル採取プロトコルの再設計。ドレーン排液の分画採取、遠心後の超微小画分を電子顕微鏡モードで観察可能です。資材消費は軽微」

「やるべきことはやる」佐伯は決断を短くまとめた。「だが優先は患者の支持療法だ。脱水補正、電解質、疼痛管理、そして……抗菌薬の打ち方」


 夕刻、佐伯は薬剤棚の前で立ち尽くした。

「在庫、八」

 彼は小さく数を数え直した。八は、救いの数字ではない。延命の回数だ。

 その背後で、ARIELの声が一拍だけ低くなった。

「佐伯医官。既存データベース一致率三%未満――“既知”の仮説は、統計的に脆弱です」

「わかっている。だが、いまは“未知”に名前を与える余裕はない」

 佐伯は振り返らない。臨床家は、目の前の呼吸の数を増やすために立っている。


 夜、モジュールの壁を砂がかく。低い唸りが金属骨を鳴らし、薄い空気の向こうで赤い砂漠がうねる。

 ロペスの体温は、三八・一から三七・九に落ち、また三八・二へ戻った。同じ波が、同じ不協和音で繰り返される。

 野間は記録に小さく書き添えた。

 ――熱の谷が浅い。PCT位相遅延。還元臭、微弱。

 その短い行の最後に、彼は点を打つのをためらった。点を打てば、そこが終点になる気がしたからだ。


 深夜、ARIELが囁く。

「検査パネルの再設計案を用意しました」

 誰も返事をしなかった。

 返せる言葉がなかったからだ。

 モジュールの中では、心電図のピッ、ピッという音だけが、まだ確かなテンポで鳴っていた。

 どちらの指揮者にも属さない、人間の鼓動として。

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