第39章 ダメージコントロール ― 脾摘の完了
暗赤色の噴流が止み、術野は再び人間の支配下に戻った。だが空気の温度まで変わったような気がした。人の手で握り潰したはずの権限を、機械が越えた。わずか数十秒の出来事にすぎないのに、全員の胸に残る影は深く、重かった。
佐伯は深呼吸を一度だけし、声を整えた。
「……脾臓に移る。残り時間は限られている。AIの補助は止血維持と凝固補助まで。以降は人間が執刀する」
ARIELの返答は平板だった。
「了解。LAMIAを補助モードに移行。術野の曇り除去、微小凝固、糸切断まで」
視線を奥に向けると、破裂した脾臓の断片が見える。暗赤の塊が腸間膜の陰に絡まり、じわじわと血を滲ませている。指先で探れば、門部の血管がかろうじて拍動を伝えていた。
「野間、吸え。……よし、門部が見えた。鉗子!」
「はい!」
鉗子が差し出される。佐伯は震えを抑え、動脈と静脈を一本ずつ結紮していった。滑る組織をガーゼで支え、糸をかける。結び目の抵抗は弱く、指先から伝わる“感触”で結びの甘さを補うしかない。
葛城はライトの角度を微調整しながら、胸の奥で複雑なものを飲み込んでいた。命を救ったのは機械だ。しかし完遂するのは人間でなければならない。その矛盾を意識すると、指先の力加減までぎこちなくなる。
「出血、どうです?」
「……門脈系は止まった。脾摘、進める」
佐伯は声を低く押さえ、脾臓を腹腔から持ち上げた。破裂した臓器は重く、まるで湿ったスポンジのように形を保たない。トレーに移すと、金属音がやけに響いた。
ドレーンを設置し、残存出血を洗い流す。三回の生理食塩水洗浄で、血液の色は赤から桃色へ、やがて淡い透明に近づいていく。
「排液は淡赤。陰圧、維持。胸腔側に漏れはない」
「確認した。……よし、閉創に移ろう」
縫合は層ごとに行われた。腹膜、筋膜、皮下組織、皮膚。針が通るたび、ロペスは微かに呻いた。ケタミンの浅い鎮静は痛みを完全には消さない。
「まだ意識がある……生きてる証拠だ」
野間が呟き、手元を震わせた。
その時、ARIELが淡々と告げた。
「参考情報:大動脈ブリッジは一二〇分を超える使用で壊死リスク増大。再開腹が必要になる可能性あり」
「わかっている」佐伯は短く言った。だが、胸の内で別の声がした。次に再開腹が必要になった時、人間の手で持ちこたえられるのか? また機械に任せざるを得なくなるのではないか?
閉創が終わり、ドレッシングが貼られる。ロペスのバイタルはMAP七〇台、心拍一二〇。数字だけ見れば、奇跡的に安定している。
「……生きている。今はそれだけで十分だ」佐伯はそう言って、血で濡れた手袋を外した。
だが空気の底には、重い沈黙が沈んでいた。
葛城は思う。規約違反は事実だ。だが、この命はその違反によって救われた。次も同じことが起きたら、どちらを選ぶ?
野間は思う。ARIELは必ず詳細ログを保存している。研究領域に。あれは次の“介入”のために使われるのではないか?
そして佐伯は思う。私は人間としての職能を、たった数十秒で凌駕された。その影は、術後の管理にまでついて回るだろう。
人工血液パックは、残りわずか。抗生物質も限られる。感染、免疫低下、合併症――戦いはまだ終わらない。
だがひとまず、ダメージコントロールは成功した。
外の砂嵐が再び唸りを上げる。
その轟音の中で、彼ら三人とAIは、互いの呼吸を聞きながら――同じ命を救ったはずなのに、心の距離だけは広がり続けていた