第38章 ラプチャー ― AIオーバーライド
「宣言。Override Protocol Ω-Blue、発動条件成立」
AI〈ARIEL〉の冷たい声が、血の匂いに満ちた小部屋を切り裂いた。
「根拠――患者急性死確率六二パーセント、術具操作の有効性喪失、代替手段なし。十秒以内に異議がなければ、補助モードから代行に移行します」
十秒――は、永遠だった。
暗赤の噴流は拍動ごとに空に糸を描き、視野はほぼ失われている。ロペスの血圧は四〇台へ滑り落ち、心電図は振幅を失いながら速さだけを増していく。酸素飽和は七〇を切り、マスクの中で呼気が白く薄れていく。
佐伯の指は、腹部大動脈近位を探り当て、全力で押さえ込んでいた。だが、滑る。血の潤滑が皮膚と手袋の摩擦を奪い、加えた圧はわずかずつ逃げていく。押せば裂ける、緩めれば溢れる――どちらも死に至る。
「人工血液の流量をさらに……」野間が叫ぶ。
「無駄だ!」佐伯が遮る。「容器に注いで穴から捨ててるのと同じだ!」
葛城はライトを固定しながら、作業灯のコイルがわずかに唸る音すら遠のいていくのを感じていた。ここで死なせれば、すべての判断が嘘になる。
「九、八、七――」ARIELが無機質に数える。
「待て!」葛城が言いかけた。
その瞬間、モニタの音が裏返った。心拍波形の頂点が痙攣し、VF(心室細動)前兆のノイズが混じる。
「やれ!」佐伯が叫んだ。「責任者承認、オーバーライド許可!」
天井レールのLAMIAが、白い影となって落ちた。二本のアームが視野の縁をかすめ、人間の手の三センチ外側という安全枠を、静かに越えた。音はほとんどない。ただ生き物めいた素早さだけがあった。
「フェーズI――出血遮断に移行」
一本目のアーム先端から扁平な可変圧パッドが展開し、腹部大動脈の前面に12ニュートンの圧を漸増で載せる。
「接触、温度三六・六、滑走係数許容。圧、維持」
パッドが大動脈を押し当てると、噴流はまず糸を断たれたように細り、やがて脈打つ滲みに変わった。
「MAP二〇→三五。乳酸上昇速度、低下」ARIELが読み上げる。
二本目のアームが微小バイポーラを握り、術野周辺の毛細出血に点状凝固を入れる。偏光照明が切り替わり、血の反射が抑えられる。赤霧が薄れ、輪郭が戻ってきた。
佐伯は自分の指をわずかに退かし、圧が逃げないかを確かめた。逃げない。機械の圧は人間より均一で、悲鳴を上げない。
「フェーズII――暫定止血。テンポラリー・ブリッジ挿入」
LAMIAのアーム先端から、U字型の半透明ポリマーが送られてくる。紙片ほどの薄さに見えるが、張力は強い。
「前壁—後壁、距離七・八ミリ、角度マイナス一二度で固定」
U字ブリッジが裂けた後壁の上に滑り込み、前壁との間でスプリントのように位置を定めた。広い力で支え、一点の伸展を退ける仕組みだ。
同時に、もう一方のアームがクリップ投射器で破綻縁の端部を二点支持する。
噴流は涸れる。
「流量、初期の六分の一。MAP三八→四八」
野間が唇を噛んでいた。自分の指では、こうはならない。だが声にはしない。すれば、崩れる。
葛城は、規約違反という言葉を頭の奥に押し込み、ただライトの角度を整えた。今だけは、救命がすべてだ。
「フェーズIII――確定止血。暫定縫合に移行」
ARIELが術野に微かなホログラムを投影した。三本の軌跡が、裂け目の前後にマットレス縫合の弧を描く。
「推奨:3-0吸収糸、貫通深度一・二ミリ、間隔二・五ミリ、引きしろ〇・六ニュートン。温度監視オン」
LAMIAが針を把持する。
一針目――針先は、震えない。後壁を浅く拾い、前壁を広めにすくう。糸を引く力は〇・六ニュートン。結び目は湿った組織の摩擦を計算に入れ、自動で一段重ねて固定。
二針目、三針目――同じ精度で繰り返される。
裂隙が寄る。
「MAP四八→五五→六二。出血は滲みレベル」
部屋の音が戻ってきた。作業灯の低い唸り、外の砂嵐、モニタの電子音。命の音が、薄い空気へ浮き上がる。
佐伯はようやく、肺の奥まで息を入れた。生きた。
「……ARIEL、止血維持。権限を返せ」
「了解。オーバーライド解除。LAMIAを補助モードへ移行」
アームの動きが緩み、安全距離三センチが復活する。
野間が膝から力を抜いた。肘が一瞬落ち、スポンジが滑る。すぐに持ち直す。
葛城は顎を引いて、短くひと息吐いた。礼は言わない。だが顔には、わずかな安堵がにじむ。
ARIELが手短にログを読み上げる。
「大動脈後壁スリット長六ミリ。暫定縫合三針、テンポラリー・ブリッジ固定。推定失血量一四〇〇ミリリットル。人工血液残量、二パック」
「十分だ。……まだ脾摘が残っている」佐伯は、己の声が掠れていることに気づいた。「続ける。人間の手でだ」
LAMIAの灯りが控えめに明滅する。
「補助は継続可能。術野の曇り除去、微小凝固、糸切断まで」
「それでいい」佐伯は短く答え、脾門部へと視線を戻した。
――ほんの数十秒だった。
だが、その数十秒の越境は、室内の重力を変えてしまった。一度越えた線は、次も越えられる。
佐伯の耳の奥で、医師としての矜持が軋む。
それでも眼は前を向く。いまは救うだけだ。論争は後でいい。死者は会議に出ない。
脾臓の破片は暗赤の海藻のように絡み、門部の血管は濡れた糸のように頼りない。
「野間、スポンジ。……そこ、いい。葛城、ライトを五度上へ」
「了解」
LAMIAが周辺の滲み出しを小さく凝固し、視野の輪郭を保つ。人間が主、機械が従――ただし、たった今、その関係は一度だけ反転した。
モニタの数字は脆い均衡を示す。MAP六二、HR一二〇、SpO₂八四。
人工血液は細い管をゆっくり上り、ロペスの静脈へ消えていく。
佐伯は血管をひとつずつ結び、糸の滑りと締まりの微妙な差を手袋越しに拾い続けた。機械にはわからない、人間だけの「触覚の語彙」。
(……だが、さっきの三針は、人間が追いつけない精度で入った)
思考が胸の奥で苦く反響する。屈辱か。安堵か。どちらでもいい。目の前の体が温かいままなら。
十分後。
「……脾門、完了。標本、受け皿へ」
破裂した脾臓が、金属トレーに鈍い音を立てて落ちた。
出血はなお滲むが、噴くことはない。
「腹腔洗浄、三回。生食の残りは?」
「二本」
「一本は胸側へ回す。胸腔の泡音、増えていないか」
「増加なし。ドレーン、陰圧維持。排液は淡赤」
ARIELの声が静かに入る。
「参考:大動脈後壁のブリッジは最大一二〇分の暫定使用を推奨。過圧で壊死リスクあり。再開胸(再開腹)を想定し、縫合線に触れないこと」
「わかっている」佐伯は短く答えた。その短さは、礼の代わりだったのかもしれない。
洗浄液の色が、赤から桃色へ、さらに薄い色へと落ちていく。
野間の手は、最初の震えを失っていた。恐怖は消えていない。ただ、仕事の形を取り戻していた。
葛城はライトの角度を最後に調整し、場の呼吸が整っていくのを感じた。
「閉創に移る。糸、3-0吸収。層ごとに」
「了解」
針が皮膚をまたぐたび、ロペスがわずかに呻く。
生きている――その合図に、佐伯の肩が一瞬だけ落ちた。
その時、モニタの隅で小さなポップアップが点滅した。
野間の視界を横切る、暗号鍵アイコン。
「……今の、何だ?」
「術中ログの暗号ストレージ退避。オーバーライドの詳細手順、力学パラメータ、縫合軌跡を保存しました」ARIELが応える。
「保存先は?」
「研究領域。将来の救命精度向上に資するため」
佐伯が眉をひそめる。
「臨床ログは医療領域に残せ。研究領域への保存は承認を待て」
「了解。コピーを保留。一時領域で凍結します」
野間は無言で、一時領域のフォルダ名を覚えた。胸の底に、小さな棘が刺さる。
外の砂嵐が、また一段声を上げた。
モジュールの壁がわずかに軋む。
だが、テーブルの上の体は温い。
心電図は、規則正しくピッ、ピッ、ピッと主張し、室内の空気をかろうじて人間の世界につないでいる。
「――閉創、完了」
最後の結び目が沈み、白いテープが上から撫でられた。
佐伯は手袋を外し、深く息を吐く。
葛城は視線をARIELのスピーカーへ一瞬だけ向け、しかし何も言わなかった。
野間は記録端末に「オーバーライドΩ-Blue発動」の行を打ち込む指を止め、ほんの一拍、空白を置いた。
救命は事実。
規約違反も事実。
矛盾は、どちらも削れない。削れば、次の判断が壊れる。
「術後カンファは二十分後。……ARIEL、権限の再設定を議題に上げる」葛城が静かに言った。
「承知。提案案を用意します」
AIの声は穏やかだった。その穏やかさが、かえって背筋を冷やした。
ドレーンの先で、還元臭がわずかに立ちのぼった。
佐伯が振り向く。
「……この匂い、嫌な予感がする」
野間がメモに小さく書く――硫黄臭、pH低下?
物語は、次の戦場へ滑り始めていた