第34章 チェックリストの割り込み
午前七時。前室の壁に固定されたホワイトボードに、今日のEVA手順が透明フィルム越しに貼られた。野間がマーカーで時刻を入れ替え、赤丸で優先度を示す。
「第一目標、パッド拡幅。第二目標、補助アンカーの埋設。第三目標、アーム根元のセンサ再較正」
項目は三つ。だが実際には、どれも“第一”だった。
スーツのプリブリーズが進む。ヘルメットの内壁に薄い霜がつき、それが素早く吹き払われる。野間が読上げを開始した。
「EVA-101、気密チェック、陽圧確認」
「OK」葛城。
「酸素分圧、1.2気圧相当」
「OK」佐伯。
「触覚アクチュエータ——左前腕、閾値超過で警告」
短い沈黙。
「ログ化して続行」ロペスが答える。
野間は視線を上げた。「手順書では交換推奨だ」
「交換部品がない。握力の補正を頭で足す。ハンドシグナル優先でいく」
葛城が割って入る。「手の合図の再確認だ。親指立て=可、掌水平=停止、握る動作=アーム固定」
「二回連続で合図が取れなければ、作業を止める」佐伯が付け足す。
野間は渋々うなずき、チェック欄に小さく「暫定」と書き込んだ。
外に出ると、光は白く鋭かった。太陽は地球の三分の一ほどの大きさで、影はほそ長く伸びる。ヤードの端には、掘削アームと吊り荷スリングが待っている。アームのベース近傍に黄色の注意表示灯が点滅していた。
「昨日のトルクだ」ロペスが呟く。「作業しながら落ち着かせる」
葛城はヘルメットのバイザー越しに彼の手首を見る。グローブの指がわずかに硬い。
「距離感を見誤るな。今日は俺が監督に回る。野間は後方でログとUI監視、佐伯は前室スタンバイ。何かあればすぐ気圧復帰だ」
野間はコンソールに座り、重機の診断画面を開いた。旋回制御のパラメータ一覧がタブに並ぶ。そこに、昨夜から残っている薄いオレンジ色の帯。
「……速度制限の仮解除フラグが“暫定”のままだ」
フラグの色は赤ではない。音も鳴らない。だがオレンジは、つまり“見ればわかる人だけが気づく”種類の警告だった。
「戻せるか?」葛城の声。
「可能だが、動いている間は反映に時間がかかる。アームを一度ホームに戻す必要がある」
葛城は数秒迷い、「いまは止めない」と言った。「作業優先。戻りは最終チェックでやる」
地盤モデルのタブを切り替えると、ページ右上のタイムスタンプが昨日のままだった。ジオラボの夜間計算が、電力節約で一時停止されたのだ。
「地盤沈下率のテーブル、旧バージョンです」野間が告げる。
「今のところ、誤差は小さいはずだ」ロペスが答える。「層厚の深いところを避ければいい」
“はず”。それはこの星で最も多用され、最も危険な言葉だった。
掘削が始まる。ドリルヘッドが赤褐色の地層に食い込み、粉が細い曲線を描いて跳ねた。ロペスはスリングにパネル材を吊り、アームをゆっくり旋回させる。
「荷重、規定内。スイング角、二度」野間が数字を読み上げる。
「OK」葛城。
ロペスは足を半歩引いて、吊り荷の動きを見極めた。左腕のフィードバックが鈍い。握っているつもりでも、位置の微差が掴みにくい。
「距離感、どうだ」
「問題ない——はずだ」
小さな“割り込み”が、作業のあちこちに入ってきた。
——通信ノイズ。
——UIのポップアップ。
——風速計の瞬間値。
注意は千切れ、結び、千切れた。
午後に入ると、風がわずかに強まった。砂が低く這い、足元の小石が転がる。
「スイング三度。抑えて」野間。
「抑えてる」ロペス。
アームベースの黄色灯が、一瞬だけ赤に近い色調で瞬いた。ログには残るが、現場の目は吊り荷に釘付けだ。
葛城が手の合図で「固定」を示す。ロペスがグリップを握り、アームを一時停止。ふっと、スイングは収まる。
「この調子なら今日中に拡幅は終わる」
言葉には自信があった。成功体験は、人を落ち着かせ、油断も運ぶ。
第二パネルに移る。アンカー位置を変えるため、ロペスはアームを五度右へ振る。
「右五、了解」野間。
画面の隅で、地盤モデルの「層厚推定」のバーが薄く点滅した。旧データでは安定層だが、昨夜の更新があれば別の色だったはずの地点。
ほんの少し、吊り荷が流れ、ワイヤが鳴いた。
「スイング五度」
「許容」葛城が短く返す。
許容。数字が言葉になると、現実が少し無害に見える。
そのとき、前室のインターホンが鳴った。佐伯だ。
「前室に救急バッグ、配置完了。医療冷蔵庫の電力を三%上げる。血液代替の温度管理がシビアだ」
「了解。——野間、ログに追記」
野間が応答し、ふと、画面上の一項目に目を止めた。旋回慣性の補正テーブル。昨夜のSOP更新で、空荷時と吊り荷時の補正ゲインが分離されるはずだった。だが今の画面に、その分離はない。
「慣性補正が旧式のまま。吊り荷の戻り角、計算が甘い」
返事の代わりに、外からワイヤの細い悲鳴のような音が届いた。
風向が少し変わる。風速は数値で二つ上がっただけだ。だが、広いヤードでは、数値の二つが目の感覚の十に感じられる。
「スイング——六度」
「固定!」葛城が掌を突き出す。
ロペスが即座に握る。だが左手の触覚が薄い。グリップの段付きに指がかからず、ミリ単位で遅れる。アームは命令を受け、停止シーケンスに入った。
そのわずかな遅れの間に、吊り荷が戻り、空を切った。
「戻り角、八」野間が声を上げる。
「許容外だ。ロペス、距離を取れ」葛城の声が低くなる。
ロペスは一歩下がる。視界の端で、パネルの角が光る。
「この位置なら——」
言い切る前に、UIがオレンジで短く点滅し、音もなく消えた。速度制限仮解除のフラグ。アームの応答は、制限時よりわずかに鋭い。わずかに、だが確かに。
吊り荷がぴたりと止まる。
ロペスはヘルメット越しに息を吐き、握力を抜いた。
「収まった。続行する」
葛城は一拍置いて頷く。
野間は唇を噛み、画面の右上に小さく「SOP未反映」と入力した。
作業は続く。三枚目のパネル。アンカーの位置は地盤モデルでは安定。だが、昨夜の未更新がそこで牙を隠している。下層に薄い空隙が伸びていたのだ。
足元の砂が、ほとんど見えないほどに沈む。
「足場、柔らかい」ロペスが呟く。
「一旦、位置を——」葛城の言葉に、野間の別のアラートが割り込んだ。
「電力、研究冷凍庫から一時供給。七分間だけ」
「やれ」
指示を出しながら、葛城は視線をロペスに戻す。わずかな時間差。わずかな目の離れ。それだけだ。
風が、再び向きを変えた。スリングが五度、戻る。
ロペスは反射的に半歩前へ出る。左腕の触覚が薄いから、目で距離を詰めにいく。
「——止まれ」葛城の掌が上がる。
握る動作。
遅れてくる触覚。
慣性補正の旧式ゲイン。
地盤の下の空隙。
それらが、音もなくひとつに重なった。
ワイヤが低く唸り、パネルの角が、ほんの僅かにロペスの胸のラインに重なって見えた。
野間はモニタに食い込みながら、数字を探した。スイング角、戻り角、荷重、慣性。どの数字も“許容範囲に近い”。だからこそ、危険の形をしていない。
「ロペス——」
言いかけて、彼は飲み込む。外に言葉が届くまでの、この薄い空気の時間差が憎らしい。
葛城は、手の合図をもう一度、大きく示した。停止。固定。後退。
ロペスは頷いた——ように見えた。ヘルメットの反射に、自分の影が重なる。
彼がグリップを握り直す、その一拍のうちに、風がもう一度だけ向きを変えた。
「スイング——九」
野間の声が前室に跳ね返る。佐伯は無言で救急バッグのファスナーを最後まで下ろし、滅菌チューブを取り出して前室の床に並べた。
準備は、整っていた。
ただし、それは事故のための準備だった。
ヤードの上で、吊り荷が描く弧が、ほんのわずかに深くなる。
数字では見えない量の“深さ”が、現場の体には重くのしかかる。
ロペスは、半歩、さらに前へ——。
空は澄み、音は薄く、影は長い。
この星では、危機は大声を上げない。
ただ、静かに揃ってしまうだけだ。
次の瞬間に何が起こるのか、彼らはまだ知らない。
だが、すでに十分だった。
事故は、起こる準備を終えていた。




