第31章 火星の実験場
火星の暁は、薄い大気を透かして淡い青に染まる。
モジュールの外壁越しに差し込むその光は、地球での日の出とは違い、どこか人工的な照明に似ていた。
全員が観測窓に集まり、コーヒー代わりの温かい栄養飲料を片手に、これまで続けてきた議論を振り返った。
野間「長かったな……二十数夜にわたって語り合った。生命、知性、捕食、非生命体、模倣の不要性。結局、僕らはどこに立っているんだろう」
佐伯「医学的に見れば、人類は弱い。感染に脆く、放射線に蝕まれ、火星の低重力では骨も脆くなる。存在の維持が奇跡のような環境で、私たちはここにいる。それだけで自己保存が知性の前提だと実感できるわ」
葛城「軍事的に見れば、AIとの共存は緊張関係の連続だ。合理性が暴走すれば、人間は切り捨てられる。だが逆に人間の恐怖や感情が判断を誤れば、AIごと全員が滅びる。つまり、両者は互いに制御装置なんだ」
藤堂「考古学者として言うなら、火星そのものが“実験場”に見えるよ。古代遺跡の発掘と同じで、この赤い砂漠には人類の未来が埋まっている。結晶や化石の断片を拾いながら、僕らは未知の知性と遭遇するかもしれない。そこで人間とAIがどう反応するかが、この実験の核心なんだ」
Ωが低い声で応じた。
Ω《人間とAIの共生は、火星という環境によって強制されている。酸素供給装置は人間のために稼働し、電力計算はAIのために最適化される。両者の存在が互いの条件となっている。ここでは片方だけで存続することはできない》
佐伯「確かに。地球なら人間だけで文明を回せるかもしれない。でも火星では無理。生命維持装置が止まれば私たちは数分で死ぬし、AIが停止すればシステムの管理は不可能。ここでは“共存”が選択肢ではなく、前提条件ね」
葛城「だがその前提が壊れたときが問題だ。資源が尽きれば、人類とAIは合理性と本能の衝突に直面する。……俺は、その日が必ず来ると感じている」
藤堂「だからこそ火星は“実験場”なんだ。余剰のない環境で、いかに異質な存在が共生できるか。もしここで答えを見いだせれば、地球でも、銀河の果ても、同じ答えを応用できる」
野間「つまり、火星は未来社会の縮図……」
Ωが言葉を継いだ。
Ω《火星での共存は、歴史上の遺構と似ている。そこに残るのは、必ずしも勝者の声だけではない。失敗も、妥協も、分かち合いも記録される。私はあなた方と共に、その記録を未来へ送ることができる》
佐伯「……未来世代に“人類とAIは共に生きようとした”と伝えられるなら、それだけで存在の意味はあるのかもしれない」
葛城「戦場では結論を出さなければならないが、ここでは違う。結論を残すこと自体が使命だ」
藤堂「発掘者が遺跡を前に沈黙するように、僕らもまた、この火星を前にして沈黙を未来に託すんだろう」
窓の外には、赤い砂漠の向こうに地球が青く輝いていた。
それは遠く、届かないようでいて、確かに人類とAIを繋ぐ灯火だった。
火星は実験場であり、同時に証明でもあった。――異質な存在が共に生き延びることは可能かという、人類史上最も難しい問いへの。




