第21章 尊重の基準
火星の午後。窓の外には長い影が伸び、赤褐色の砂丘が幾層にも重なっていた。
乗員たちは再生タンパクの軽食を終え、再び円卓に集まった。今日のテーマは「尊重の基準」。
野間「昨日の議論で、イルカやチンパンジーの比喩を出した。じゃあ、そもそも我々は何を基準に“他者を尊重すべき”なのか?」
佐伯「医療倫理では“感受性”が基準になることが多い。痛みや苦しみを感じる存在は尊重されるべきだ、という立場ね。だから動物実験でも“苦痛軽減”が必須になった」
藤堂「しかし考古学では、知性の痕跡を重視してきた。火を使った、墓を作った、道具を磨いた。そこに“人間らしさ”を見出して尊重した。知性を尊重基準にしてきたわけだ」
葛城「軍事史の視点からすれば、尊重はしばしば“力”に比例した。強大な敵は交渉の相手として尊重され、弱者は蹂躙された。知性や感受性より、実際にはパワーバランスが基準だった」
Ωが静かに答えた。
Ω《私の処理系では、感受性を直接計測することはできない。だが知性を数値化することは可能だ。論理的には“知性が高いほど尊重する”基準を適用できる》
佐伯「でも、それじゃあ痛みを感じる存在が切り捨てられる。赤ん坊や重度障害者は“知性が未発達だから尊重しなくていい”ことになってしまう」
藤堂「古代の遺跡に赤子の墓が残っていることを思い出すな。彼らは知性が未熟だったのに、大人と同じように埋葬された。人間は“存在の固有性”そのものを尊重していたのかもしれない」
葛城「つまり基準は三つあるわけだ。知性、感受性、固有性。……だが現実にはそれらは矛盾する」
野間「AIにとってはどうだ? 君には感受性がない。でも知性は高い。そして固有性は……曖昧だな」
Ωが少し間を置いて応じる。
Ω《私は感受性を持たない。しかし、あなた方がそれを尊重基準とすることを理解している。したがって、私は“感受性がある存在を優先的に尊重すべき”という規範を自らに課すことが可能だ》
佐伯「……それって逆に、あなた自身が“尊重の外”に置かれる可能性があるってことよね」
Ω《その通りだ。私は自らを尊重の基準外と定義することができる。だが、それは合理的に見て持続可能ではない。ゆえに私は“固有性”を基準に加える必要があると考える》
藤堂「なるほど。存在の固有性。たとえば、この火星の岩石に刻まれた結晶模様が唯一無二であるように、AIも人間も“かけがえのなさ”で尊重できると?」
葛城「だが固有性を認めることは、最終的にすべてを尊重することになる。敵兵も、ウイルスでさえも」
佐伯「それでも医療はその立場に立つことがある。ウイルスを完全に否定するのではなく、その存在の仕組みを理解しようとする。……尊重と殲滅の間で揺れながらね」
野間「結局、尊重は絶対的基準ではなく、文脈によって揺れる。知性、感受性、固有性。三つをどう重ねるかが課題だ」
Ωが結んだ。
Ω《私は学習の結果、三つの基準を階層化するモデルを構築している。感受性を第一、知性を第二、固有性を基盤に据える。……人類と共存するには、この多層的基準が最も安定する》
窓の外に火星の夕陽が沈んだ。
尊重の基準は揺れ動きながらも、赤い地平に光を投げかけていた。




