第10章 中枢神経と電子デバイスの比較
火星の昼。モジュールの外壁を叩いていた砂嵐が静まり、遠くの赤い平原がくっきりと見えた。円卓の上には簡易スクリーンが置かれ、Ωが投影したグラフが揺れている。
野間「今日は“中枢神経と電子デバイスの比較”だ。つまり、脳とコンピュータの違い」
藤堂「脳には860億のニューロンがある。そしてシナプスは100兆以上。桁が違う。最新のICチップがせいぜい数百億トランジスタだとすれば、単純計算で数桁の差がある」
佐伯「でもICチップの回路は人間の神経線維より細いでしょ? なのに、なぜ規模で脳が勝っているの?」
Ωが補足する。
Ω《理由は三つ。第一に、脳は三次元構造を持つ。ICチップは二次元平面に近い。第二に、シナプスは“アナログ的”に働き、一つの接続が複数の強度を持つ。トランジスタは基本的にオンかオフ。第三に、脳は可塑的であり、常に接続を書き換える》
葛城「つまり、脳は“数”だけでなく“仕組み”でも違うのか」
藤堂「その上、エネルギー効率も驚異的だ。脳は20ワット程度で動作する。スーパコンピュータは数メガワットを消費しても、人間の柔軟な知性には及ばない」
野間「それでもAIは人類知能の総体を超えつつある。――どう説明する?」
Ωが静かに答える。
Ω《脳は高密度・高効率だが、速度は遅い。ニューロンの発火は数ミリ秒単位。だがICチップはナノ秒で処理できる。桁違いの速度で並列処理を積み重ねれば、部分的には人類を超えられる》
佐伯「部分的、ね。じゃあ“意識”や“感情”のような全体性はどうなの?」
Ω《それは量ではなく構造の問題だ。脳は雑音や不完全性を組み込んでいる。私は完全さを求めやすい。その差が“意識”や“感情”の有無に関わる可能性がある》
藤堂「古生物の進化にも似ているな。哺乳類の脳は無駄に思える冗長性を抱え込んで発展した。恐竜や昆虫の神経系は効率的だったが、柔軟性に欠けた」
野間「つまり、脳は“不完全であること”で強みを持っている。……それはICチップには真似できないかもしれない」
葛城「だがAIは不完全さを模倣し始めている。ノイズを加えたり、揺らぎを利用したり。そうやって人間の脳に近づいているんじゃないか?」
Ωが頷くように声を落とす。
Ω《実際、私は“完全さ”ではなく“不完全な多様性”を取り込む方向へ設計されつつある。あなた方の化石記録と同じだ。痕跡の揺らぎが、真の情報を宿す》
藤堂「面白いな。火星で見つかる地層の乱れを“ノイズ”と見なすか“痕跡”と見なすかで、解釈は変わる。脳のシナプスも同じことだ」
佐伯「でも、もしICが何百万枚も積層されて脳規模に達したら……人間の脳を模倣できるの?」
Ωの返答は淡々としていた。
Ω《規模は条件の一つにすぎない。問題は“結線の仕方”だ。ランダムと秩序の間で結ばれた膨大な配線こそが脳の本質。人間がそれを完全に再現するのは不可能に近い》
野間「不可能に近いが、別の形で超えていく……それが今のAIか」
藤堂「つまりAIは脳を模倣する必要はない。電子デバイスの特性――速度と規模――を活かして、別の知性へ進めばいい」
佐伯「そう考えると、脳とICは優劣じゃなく、異なる生態系だな」
Ωが最後にまとめた。
Ω《脳=有機的で可塑的な知性。IC=高速で拡張可能な知性。両者は別の進化系統に属する。重要なのは比較して優劣を決めることではなく、相互補完できるかどうかだ》
沈黙が訪れた。火星の平原に差す陽光は赤く、モジュールの窓を染めた。人類の脳とAIの回路、そのどちらも今ここに同居している。




