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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン13

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第8章 火星長期滞在 ― トイレと身体清拭



 火星地表の居住モジュールは、外の嵐に揺れていた。赤茶けた砂が透明なドームに打ちつける音を、室内にいた四人はもう気にしなくなっていた。気にしなければならないのは、もっと切実な日常だった。


 ――トイレ。


 水は一滴も無駄にできない。使用するのは簡易型の真空吸引トイレで、座面は狭く、利用前後には滅菌シートでの拭き取りが欠かせない。排泄物は真空乾燥と化学処理で固形物と水分に分けられ、水は再利用される仕組みだった。

 藤堂科学主任は、使用前に必ず小さな赤ランプを確認する。処理槽が満杯に近づくと警告が出るのだ。もし満杯のまま使用すれば、再循環システム全体に汚染が広がる。

 「……まだギリギリ大丈夫か」

 彼は低く呟きながら座り、ヘッドセットで音楽を流す。仲間に音が聞こえないように。羞恥心は訓練で克服したはずだが、実際の閉鎖空間では簡単ではなかった。


 佐伯医官は日誌にこう書き残している。

 「排泄の不安は、睡眠障害に直結する。順番を待ちながら人の気配を意識し、音や匂いを気にし続ける。人間の尊厳を保つには、この狭さが最大の敵だ。」


 身体清拭もまた、日常の儀式だった。水浴びは許されない。1人あたりに配分される水は酸素生成と飲料に優先され、身体洗浄には使えない。代わりにアルコール含浸シートが支給されており、クルーは一日に数枚ずつ配られる。

 夜、作業を終えた葛城副艦長が作業服を脱ぎ、薄暗い照明の下で全身を拭く。シートを首筋から腕、胸、足へと移動させると、白い布がすぐに赤茶けた粉塵で汚れていく。火星の砂は居住区に入り込む微細粒子で、知らぬ間に皮膚の隙間に溜まるのだ。

 「……風呂に入りたい」

 思わず零した言葉に、隣で同じように清拭をしていた野間通信士が苦笑した。

 「帰ったら銭湯だな。熱い湯気を吸い込んで、汗だくになりたい」

 二人は互いに顔を見合わせ、少しだけ笑った。その笑いが、閉塞した空間を和らげる唯一の清涼剤だった。


 一方、母船YAMATO。

 こちらのトイレは地表よりは広く、数も多い。しかし基本は同じで、真空吸引式。利用後は銀色のフィルターユニットが低く唸り、排泄物は即座に処理系に吸い込まれる。南條艦長は習慣のように、使用後に長く手を洗う。わずか150mlの再生水を何度も手にかけながら、念入りに。手の甲から滴るその水すら、最終的には回収されてタンクへ戻される。

 「ここでは潔癖症も立派な規律だな」鶴見技術曹長が皮肉を言う。

 「だが油断はできん。感染症一つで全滅だ」南條は答える。


 母船の身体清拭は、地表よりわずかに贅沢だった。人工重力区画に小型の超音波シャワー装置があり、水をほとんど使わずに皮膚表面の汚れを弾き飛ばすことができる。ただし週に一度だけ。残りの日はやはりアルコールシートだ。

 山岸准尉は、清拭のたびに耳元で聞こえる自分の心臓の音に気づく。静かすぎる船内で、布を擦る音と自分の呼吸音だけが空間を満たす。

 「これじゃ、人間というより機械のメンテナンスだな……」

 その独白は、誰にも届かなかった。


 やがて地表と母船の双方で、同じような習慣が生まれた。清拭が終わると、クルーは互いに「匂い、大丈夫か?」と軽い冗談を言い合うのだ。笑いを交わすその瞬間、彼らは人間であることを確かに思い出す。


 赤い惑星に降り立った人間の暮らしは、壮大な科学の実験であると同時に、日常の羞恥と不便を抱える営みでもあった。トイレの静寂、清拭の布の冷たさ。それらすべてが、火星に生きるという現実を刻み込んでいた。


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