第105章 接続の日
2025年5月、東京・丸の内。
超高層ビル群の谷間にひっそりと佇むガラス張りの施設があった。名称は「産業史アーカイブ・センター」。その内部には、最新のBMI(脳–機械インターフェース)を用いた体験型記録システムが設置されていた。
この日、特別公開プログラムに参加する三人の若者が招かれていた。
一人は、スーツ姿の 三井 悠人。二十代後半、大手メガバンクに勤める金融マンだ。平日は数字と市場に追われ、休日は疲れ切った身体を休めることしかできない。彼にとって「三井」という姓は、ただ面倒な名刺交換の話題の種であり、誇りでも呪縛でもなかった。
二人目は、ラフなジャケットにノートPCを抱えた 岩崎 達哉。三十歳、ベンチャー企業の創業者で、AI関連の小さなスタートアップを経営している。彼は常に「自力で成り上がりたい」と思っていた。だが同時に、名刺に記された「岩崎」の二文字が、自分の努力とは無関係に周囲の期待や視線を集めてしまうことに苛立ちを覚えていた。
三人目は、地味なリュックを背負った 住友 美咲。二十代半ば、大学院で材料科学を学ぶ研究者の卵だ。研究室に籠り、金属の特性や実験データと格闘する日々。彼女にとって「住友」という姓は、教授や同僚が時折冗談めかして口にする“財閥の末裔”という枕詞にすぎなかった。だが内心では、「過去の重みから自由になりたい」という思いと、「失われたものを自分が少しでも知りたい」という相反する感情がせめぎ合っていた。
三人はそれぞれ、互いに初対面でありながら、同じ「血の記憶」を辿るために呼び出された。
受付を済ませると、白衣を着たスタッフが彼らを案内した。
「今日は通常プログラムではなく、特別に“深層接続”に入っていただきます。三井、三菱、住友――旧財閥に属したご家系の記録が、BMIを通じて系統的に追体験できるのです」
三人は無言で頷いた。
ヘルメット型の接続装置が用意され、脳波センサーが額と後頭部に取り付けられていく。心拍数がモニターに映し出され、青いラインが規則正しく動く。
ふと、悠人が呟いた。
「……これ、本当に必要なんですかね。今さら先祖を知ったところで、僕らの暮らしが変わるわけじゃない」
達哉が皮肉っぽく笑う。
「必要かどうかなんて関係ないさ。ビジネスにしろ歴史にしろ、“名前”は勝手に僕らを追いかけてくるんだ」
美咲は少し考え込んでから、小さな声で答えた。
「私は……研究者として、祖先が何を作り、何を失ったのかを知りたい。だって“住友の銅”は、いまでも論文に出てくるから」
三人の言葉はそれぞれ違ったが、動機の根には共通する不安と好奇心があった。
接続が始まる。
視界が白く揺れ、都市の雑踏の音が遠ざかっていく。代わりに耳に届いたのは、ざわめく市場の声、算盤を叩く音、銅を溶かす炉の轟音だった。
青年たちの前に、三つの異なる光景が広がる。
一人は江戸の呉服商・三井高利の店先。
一人は土佐の片隅で海運業を夢見る岩崎弥太郎の小屋。
一人は京都で銅を精錬する住友政友の工房。
AIの声が重なる。
《これより、あなた方はそれぞれの祖先の視点を通して、商いと富、国家と社会の変遷を追体験します。富は力となり、力は責任となり、責任は記憶となる。その記憶を、未来へどう繋ぐか――それは、あなた自身の選択です》
三人は同時に息を呑んだ。
現実の身体は椅子に固定されたまま。しかし心は、三百年以上の時を遡っていた。
こうして「三井」「三菱」「住友」、三つの名を背負う子孫たちの旅が始まった。
彼らはまだ知らなかった。祖先の記憶の果てに、自らの生き方を決定づける問いが待ち受けていることを――。




