第95章 戦争と敗北
轟音が響いた。青年の視界に現れたのは、焦土と化した東京の街だった。
木造家屋は炎に呑まれ、黒煙が空を覆っている。瓦礫の間を、避難民が列をなし、泣き叫ぶ子どもの声が夜空に木霊していた。
AIの声が低く囁く。
《ここは昭和二十年。敗戦の直前です。だがあなたが知る世界線とは異なる。原爆は投下されなかった。戦局は消耗戦の果てに崩壊したのです》
青年の心臓が跳ねた。
原爆という「決定的な衝撃」が欠けている敗戦――その意味は、想像以上に重いのではないか。
場面は皇居の一室に移った。ラジオの前に立つ昭和天皇。白いマイクの前で静かに言葉を紡いでいる。
「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ……」
玉音放送――だが青年の耳に届く響きは、史実のそれよりも抑制され、短いものだった。なぜなら、ここでは広島も長崎も焦土と化してはいなかったからだ。敗戦は必然であったが、衝撃は希薄だった。
AIが補足する。
《原爆がなかったことで、“敗北の理由”は不明瞭になりました。国民は理解できぬまま、ただ空襲と飢餓に疲弊して降伏を受け入れたのです》
青年は震えた。
「決定的な敗因がなければ、人々はどう考える? “なぜ負けたのか”と問い続けるだろう」
その予感通り、視界は国会議事堂に移った。戦後の混乱の中で、議員や知識人たちが声を荒げている。
「戦争責任は誰にあるのか!」
「天皇は存続すべきではない!」
「共和制こそ新しい日本の道だ!」
議場は嵐のような怒号に包まれていた。
AIが語る。
《史実では原爆と占領政策が“天皇の象徴化”を後押ししました。しかしこの世界線では、それが選ばれなかった。国民は敗戦の曖昧さに憤り、天皇制そのものを否定したのです》
青年の視界に、新聞の見出しが次々と浮かぶ。
――「戦争責任を追及せよ」
――「国民投票へ、共和制支持多数」
――「皇室財産、国有化へ」
御所の映像が現れる。菊花紋章は外され、皇族たちは静かに退出していく。行列をなす馬車の窓から、皇女や皇子が町を見下ろす。だが民衆の目は冷ややかだった。万歳ではなく、ただ沈黙。
青年は胸を締め付けられた。
「ここで血統は、ついに政治的な存在としての役割を失ったのか……」
AIは静かに応じる。
《はい。しかし完全に消滅したわけではありません。血統は“文化の残滓”として生き延びました。だが、国家の中心には二度と戻らなかった》
青年の目に、敗戦後の荒廃した街並みが映る。闇市、廃墟、焼け跡のバラック。だがその中で、民衆は逞しく生きていた。
「人々は、血統がなくても立ち上がれる。むしろ、血統を棄てることで新しい道を選んだのだ」
場面は国会に戻る。憲法が採択される瞬間。そこには「天皇」の文字はなく、「主権は国民に存する」と明記されていた。
青年は息を呑む。
《ここから先は、あなたの祖先が“国家の象徴”ではなく“一市民”として生きた時代です》
視界が暗転した。
戦火の残響は消え、青年の胸には言いようのない虚無が広がっていた。
血統の終焉――それは断罪ではなく、解放でもあった。
AIが最後に囁いた。
《次にあなたが見るのは、共和政の胎動。血統は政治から退き、文化と記憶へと転化していくのです》
青年は深く頷いた。歴史の奔流は、今や彼の祖先を「市民」へと変えつつあった。




