第91章 江戸の静謐
青年の視界に、長大な堀と白壁の天守がそびえ立った。江戸城――武家政権の絶対的中心である。彼の意識は、そのまま京の御所へと引き寄せられる。
だが、そこで彼を待っていたのは、ひどく静まり返った空気だった。
御所の襖は古び、庭には雑草が伸びていた。かつて国の中心であった大極殿も朽ち果て、儀式の場として細々と用いられている。
群臣はいるが、かつての緊張感はなく、形ばかりの拝礼が繰り返されるだけ。
AIが囁く。
《江戸幕府は、禁中並公家諸法度を制定しました。天皇と公家を徹底的に管理し、政治への関与を封じたのです》
青年の脳裏に、その条文が光の文字として浮かぶ。
――「天皇は和歌・学問・礼楽を専らにすべし」
――「政治に口を出すことを禁ず」
青年は息を呑んだ。
「血統は……完全に権力から隔離されたのか」
場面が切り替わる。
御所の一角で、和歌の会が開かれている。天皇自ら短冊を手にし、近臣や公家と歌を詠み交わす。そこには武力も政治もない。ただ言葉の響きと文化の精緻さがあるだけだった。
AIは言う。
《幕府は天皇を「政治から切り離す代わりに、文化の象徴」として生かしたのです。血統は権力を失っても、文化資本としての役割を担うことになった》
青年は奇妙な感覚を覚えた。
力を奪われ、権威を封じ込められてなお、天皇は完全に消されはしなかった。むしろ「安全な象徴」として利用され続けたのだ。
「無力さが、生存の条件になったのか」
御所の夜。灯火の下で、若き帝が筆を執り、漢詩を詠んでいる。背後には学僧や公家が並び、古典を講じている。そこには国家の実権はないが、文化の香気だけは確かに残っていた。
AIが告げる。
《この時代、皇統は“文化の温室”に変わりました。幕府はそれを監視しながらも、完全には否定しなかった。なぜなら「権威は必要な時にだけ利用できる」からです》
青年は江戸城の場面を思い浮かべた。将軍が権力を握り、全国を支配している。しかしその正統を裏打ちするためには、なお「朝廷の存在」が必要だった。
矛盾した構造――支配されながら利用される存在。
青年は口を引き結んだ。
「血統は、幽閉されてもなお、消費され続けた」。
やがて時代は動き出す。西国から異国の船が現れ、黒い煙を吐いて江戸の海を覆う。
ペリー来航――新しい時代の前触れだった。
御所では、天皇が動揺する公家たちを前に、静かに祈りを捧げていた。政治的権力はない。それでも、その姿は不思議な重みを帯びていた。
AIは囁く。
《封じられていた象徴が、再び表舞台に引き戻されようとしています》
青年は深く息を吸い込んだ。江戸の静謐は、嵐の前の静けさに過ぎなかったのだ。
視界が暗転し、AIの声が響く。
《次にあなたが目にするのは、幕末。象徴が革命の旗となり、再び危うい光を放つ時代です》
青年は目を閉じた。歴史の静と動、力と無力、その繰り返しが自分の血に刻まれていることを感じていた。




