第87章 摂関と院政
視界は、ふたたび光に満たされた。だが今回は、かつての大極殿のような直線的な威容ではない。
彼の眼前に現れたのは、屏風と几帳に仕切られた薄暗い空間。香が焚かれ、衣擦れの音と共に人々が出入りしている。
青年は思わず身を乗り出した。そこは平安京、藤原摂関家の邸宅だった。
帳の奥では、天皇がまだ幼い姿で座らされている。顔色は青白く、笏を握る手は細く震えていた。だが、その周囲には堂々たる藤原氏の当主たちが立ち、実権を掌握していた。
AIが囁く。
《摂政・関白。血統の威光を利用し、政治を操った者たち。天皇は「存在」するだけで十分だった》
青年は驚きと同時に、奇妙な哀れを覚えた。律令国家の玉座で見た絶対の権威は、ここでは虚ろな器に過ぎない。実際に政務を裁き、人事を決めるのは藤原氏。天皇は「血統の証明書」として置かれているにすぎなかった。
場面が変わる。
今度は院御所。出家した上皇が院政を布く。白い法衣をまとった姿が、俗世の権力を巧みに操っている。
AIは淡々と解説する。
《天皇の座は形式化し、権力は外戚と上皇に分岐した。血統は“分身”を生み、二重三重に利用される仕組みになったのです》
青年の視界に、系図が光の糸で編まれて浮かぶ。藤原氏が皇女を后に立て、その子を天皇に据える。外戚として摂政・関白の地位を独占する。
一方で、譲位した上皇は「院」として別の権力核を築き、院庁で政務を指揮する。
青年は目を細める。
「血統は、この時点で完全に“政治の道具”になったのだ」。
彼はふと、自分の立場を重ねた。
現代、共和制の下で生きる自分もまた「血統ゆえに注目され、利用される存在」ではないか。血統は力ではなく、しばしば足枷となる。
御所の庭では、女房たちが和歌を詠み交わしていた。政治の実権が失われても、宮廷は文化の中心であり続けた。香の煙、緋の衣、管弦の調べ。
AIが補足する。
《血統が権力を失うとき、それは文化資本へと転化します。和歌、儀式、礼法――これらは血統の“残存価値”となり、次の時代を支えたのです》
青年は頷いた。確かに、自分の家も現代では政治的な権力などない。だが、家に伝わる和歌や装束、祭祀の知識は、教育や文化の場でいまだ尊重されている。
それは平安時代にすでに始まっていた構造だったのだ。
場面は再び切り替わる。
大内裏の正殿で、幼い天皇が即位の礼を行う。だが実際に政治を指揮するのは背後の摂関。
青年はその背後に黒い影を見た。それは血統が「自立の力」を失い、他者に操られる傀儡となる姿だった。
胸が苦しくなる。
「私は……祖先のこの姿を、誇りに思うべきか、それとも恥じるべきか」
AIは冷ややかに答えた。
《誇りでも恥でもありません。血統は“常に他者と関わる力”です。独立した存在ではない。利用され、また利用する。その循環の中で存続してきたのです》
青年は黙った。
血統は絶対の光でもなければ、無力な闇でもない。ただ、時代ごとに形を変えながら「使われ続けてきた」のだ。
やがて、庭に月が昇る。女房が筆を走らせる。紙の上に仮名の歌が浮かび上がる。
――それは力を失った宮廷が編み出した「もう一つの権威」。文化の精緻さこそが、新しい武器だった。
青年はその光景を見ながら、胸の奥で確かに理解した。
「血統は、権力を失ったときにこそ、文化へと転じて生き延びる」。
視界はゆっくりと暗転した。
AIの声が告げる。
《次にあなたが見るのは、武士が台頭し、血統が軍事権力の旗印として再利用される時代です》
青年は深く息を吸い、目を閉じた。歴史の奔流は、なお止まることを知らない。




