第61章 《夕陽の錨》
調印式の最後の署名が、万年筆の先から滑るように紙へと刻まれた。薄く黄ばんだ羊皮紙に黒いインクが吸い込まれていく瞬間、会場に漂っていた緊張が解けたように、深い静寂が訪れた。艦橋下の特設テーブルには、連合国代表と日本全権の署名が並び、やがて書記官がそれを抱え上げた。
「調印完了」
その短い言葉が響いたとき、甲板に整列した将兵たちの胸に去来したものは、勝利でも敗北でもなかった。多くは安堵であり、一部は屈辱であり、また別の者にとっては不可解な空虚だった。
艦首に掲げられた二つの旗――旭日旗と連合国旗――は夕刻の風に揺れていた。甲板に立つ兵士たちは、その並びを見上げて言葉を失った。片方はかつて自らの命を捧げると誓った旗であり、もう片方は憎むべき敵の旗だった。だが今、それらは同じ風に吹かれ、同じ高さで翻っている。
若い兵士が隣の上官に小声で問いかけた。
「我々は……負けたのですか?」
上官は答えを探すように長い沈黙を置き、やがて呟いた。
「負けたのかもしれん。だが、生き延びた。それだけは確かだ」
沿岸に集まった群衆の中でも反応は分かれた。
母親は子を抱き、涙ながらに「生きていてくれてありがとう」とつぶやいた。
一方で復員兵は拳を握りしめ、「これが戦った者への報いか」と歯を食いしばった。
老人は静かに旗を見つめ、「滅びではない。国はまだ続いている」と呟いた。
勝者と敗者を隔てる明確な境界線は、そこにはなかった。人々の心の中で、誇りと屈辱、救いと絶望が複雑に絡み合っていた。
やがて夕陽が海面を朱に染め、大和の艦影を長く伸ばした。巨艦は式典を終えると静かに錨を下ろした。鎖が海へと落ち、重い音を響かせる。その音は、過ぎ去った戦争の重みを告げる鐘のように感じられた。
式典に参列していた新聞記者は、甲板から離れ際に手帳へ走り書きをした。
〈敗北か、出発か――判じ難し。だが今日、歴史のページは新しく開かれた〉
マッカーサーは最後に一言だけ残し、艦を降りた。
「日本は未来を選んだ。我々と共に歩むだろう」
その通訳の声が波に溶け、群衆のざわめきに消えていった。だが彼の言葉は、多くの者にとって「勝者の宣告」でもあり、「共存の宣言」でもあった。どちらに聞こえるかは、聞く者の立場と心に委ねられていた。
甲板に残った有賀艦長は、静かに艦首を見やり、誰にも聞こえぬ声で呟いた。
「艦は沈まず、国も沈まなかった。しかし――沈まぬことが未来を保証するわけではない」
その言葉は夕風に溶け、やがて夜の海に消えた。
こうして調印は粛々と終わり、大和は夕陽の中で静かに錨を下ろした。勝者と敗者の境界は曖昧なまま、新しい時代が始まろうとしていた。




