第42章 宣伝と洗脳 ― 言葉が武器になるとき
開廷の鐘が鳴り、法廷に再び緊張が走った。
裁判長が宣言する。
「本章の審理は宣伝と洗脳。言葉と映像がどのようにして群衆を動かし、戦争犯罪を可能にしたかを問う」
検察官はスクリーンに映像を投影した。広場を埋め尽くす群衆、旗の海、演説台で叫ぶ指導者。
「この場に銃はない。しかし、ここから戦争が始まった。武器は言葉、弾丸は映像だ」
証人としてメディア史の研究者が呼ばれる。
「ナチスはラジオを“一家に一台”普及させ、映像と音声で同じメッセージを繰り返しました。“敵を憎め、指導者を信じろ”という単純なフレーズです。心理学的に言えば、反復は真実感を生む。嘘でも繰り返されれば事実のように受け取られるのです」
傍聴席の若い学生が小声でつぶやく。「SNSでフェイクが拡散するのと似てるな」
裁判長が頷く。「まさに現代にも通じる問題だ。技術は変わっても、仕組みは同じである」
弁護人が立ち上がる。
「だが、群衆は受け取るだけの存在か? 誰も批判できなかったのか?」
研究者は答える。
「批判の声はありました。しかし、強大な宣伝機構は異論を押し流す。群衆の中で沈黙は同調と見なされ、反対者は孤立し、やがて排除されました」
次に心理学者が証言する。
「群衆は理性より感情に反応します。“危険が迫る”と繰り返されれば、敵を実感しなくても恐怖を抱く。そして恐怖は、暴力への正当化を導く。恐怖が理性を麻痺させ、言葉が人を殺す準備を整えるのです」
検察官は畳みかける。
「つまり宣伝は銃と同じだ。群衆を兵士に変える武器だった。ならば、その設計者は加害者に他ならない」
記者が速記を取り、翌日の記事にまとめた。
> 「言葉は銃弾、映像は砲火――法廷、ナチス宣伝の責任を追及」
> メディア史研究者は「反復が嘘を真実に変えた」と証言。
> 心理学者は「恐怖が群衆の理性を奪った」と解説。
> 裁判長は「現代にも通じる問題」と指摘し、傍聴人の多くが自らの生活を思い起こした。
傍聴席で中年の女性が隣人にささやく。
「戦争を始めるのはいつも男の演説だと思っていたけど……ラジオの声や映画館の映像も同じくらい人を動かしたのね」
隣の男性は苦笑する。「今だってテレビやネットで“敵”を作り上げるのは簡単だ。人は変わらないのかもしれん」
弁護人が再び反論する。
「だが群衆にも自由意思はある。宣伝を信じるか否かは個人の選択では?」
検察官が即座に答える。
「自由意思は情報の選択肢があるときに成り立つ。選択肢が奪われ、嘘だけが繰り返されれば、それはもはや“選択”ではない。国家が意図的に自由を閉ざしたのです」
裁判長が小槌を鳴らす。
「本章の結論はこうだ。宣伝は単なる情報ではなく、暴力を準備する装置であった。言葉を設計した者、映像を操った者、その責任は戦場で銃を撃った兵士と同じく重い」
退廷後、記者は記事の末尾にこう書き添えた。
> 「群衆を武器に変えるのは、鉄砲ではなく言葉である。今日の法廷は、戦争の影が始まるのは演説台の上からだという事実を突きつけた」




