第39章 《法廷の影》
一九五五年、東京・日比谷公会堂。日本法学会の春季大会には、例年よりも多くの外国人研究者が出席していた。壇上には「戦争犯罪と国際裁判の未来」という横断幕が掲げられている。共和国として再出発した日本が科学同盟国として世界に影響力を増すなか、国際法学者たちは改めて「軍事裁判」の意味を問い直そうとしていた。
史実のこの年、日本はまだ国際社会で「敗戦国」の影を背負い、東京裁判の記憶が重くのしかかっていた。だが、この改変世界では、沖縄戦も原爆投下もなかったがゆえに、逆に「裁き」の正当性がいっそう鋭く問われていた。もし戦火が都市を焼き尽くさなかったなら、果たして東京裁判は同じ形で成立したのか。誰が、何を裁き、どのような罰を与えるべきだったのか。
会場の最前列には、若い法学徒たちがノートを開いていた。彼らは耳慣れない語を繰り返し書き写す。「ライプツィヒ裁判」。第一次世界大戦後、ドイツの戦争犯罪人を裁くために設けられたが、実際にはわずかな被告に軽い刑が下されただけで、国際社会からは「不完全な裁き」と批判された。次に挙げられるのは**「ニュールンベルク裁判」。第二次大戦後、ナチスの指導者たちを裁いたこの裁判は、初めて「人道に対する罪」を国際的に明文化した歴史的試みだった。そして三つ目が「東京裁判」**。日本の指導者たちを裁いたこの法廷は、判決の重さと同時に「勝者の裁き」という批判も残した。
討論者の一人、若き教授はこう問いかけた。
「軍事裁判とは誰の責任を問うのか。国家の指導者か、兵士か、それとも国民全体か。平和時の刑事裁判は、個人の行為を罪として処断する。しかし軍事裁判は、個人の行為と国家の決断とをどう切り分けるのか」
別の研究者が答える。
「軍事裁判の根底には、国家が組織した暴力をどう扱うかという問題がある。通常の刑事裁判では『殺人』は個人の犯罪だ。しかし戦争では、殺すことは命令であり、義務でさえある。その線引きを越えたときにのみ、国際法は『犯罪』と呼ぶ。だがその基準は常に曖昧だ」
会場は静まり返った。聴衆の中には、かつて戦地に赴いた元兵士の姿もあった。彼らは「命令と責任」の狭間で裁かれる未来を想像し、硬い表情を浮かべていた。
史実の1955年、ニュールンベルク裁判はすでに世界の教科書に載り、東京裁判は批判と正当化の両論を呼び続けていた。ライプツィヒ裁判は忘れられつつあったが、法学者たちの記憶には残っていた。平和時の刑事裁判が「社会秩序を守る」ためのものだとすれば、軍事裁判は「国際秩序を守る」ためのものと定義できる。だが秩序を壊したのは誰か、責任を負うのは誰か。その問いは常に宙に浮いていた。
この改変世界ではさらに別の問題が持ち上がっていた。沖縄が焼かれず、東京が瓦礫とならなかったことで、「被害の大きさに見合う裁き」という前提が揺らいでいたのだ。科学と軍事を両立させ、国連派遣に参加する「未来国」となった日本が、過去の裁きをどう再定義するのか。討論は熱を帯び、国際法学者たちは一つの仮定に行き着く。
——もしも軍事裁判を再び設けるなら、それは「勝者が敗者を裁く場」ではなく、「人類全体が自らの暴力を振り返る場」でなければならないのではないか。
壇上の照明が落ち、会場にざわめきが広がった。外では夕暮れの東京の街にネオンサインが点り始めていた。科学都市の灯と、軍事裁判の影。その二つが重なり合う中で、新しい議論が動き出そうとしていた。




