第38章 アジアの波紋
一九五五年四月、インドネシア・バンドン。熱帯の太陽が容赦なく照りつける街に、二十九か国の代表が集まっていた。史実のバンドン会議は、アジア・アフリカ諸国が「反植民地主義」「非同盟」を掲げて結束した歴史的な瞬間であった。しかし、日本はまだ敗戦から十年の重荷を背負い、招待はされたものの発言権は限られていた。かつての侵略国として警戒の眼差しが注がれ、会議の中で日本が主導的な役割を果たすことはなかった。
だが、この世界の会場には異なる空気が漂っていた。壇上に立つ日本共和国首相・黒田俊彦の姿は、他の指導者たちの視線を一身に集めていた。彼の背後には「日米科学技術協定」の象徴たる資料が積み上げられ、さらに日本が国連平和維持部隊に兵力を提供している事実がアジア諸国に広く知られていたからだ。
黒田は開会演説でこう語った。
「かつて日本はこの大陸を武力で侵した。私たちはその過ちを消すことはできない。しかし、いま我々が持つのは、科学と実戦経験を基盤にした平和維持の力だ。戦争を繰り返さぬために、我々はアジアの仲間と協力したい」
会場は一瞬、静まり返った。史実の会議では「日本は西側の代理人にすぎない」との警戒が根強くあったが、この世界では違った。日本は米国に従属するのではなく、「科学で並び立ち、軍事で責任を分担する国」として認識されていた。
インドのネルー首相が先に口を開いた。
「日本は過ちを認め、再生した。ならば我々もその姿を参考にしよう」
その言葉に、インドネシアのスカルノ大統領が続いた。
「我々は独立を得たばかりだ。日本のように科学を基盤とし、軍事を責務とする国家の在り方は、未来の選択肢となる」
一方、冷ややかな視線もあった。中国代表団の主席は眉をひそめ、「日本の軍事力は再びアジアを脅かすのではないか」と指摘した。黒田はそれに対し、淡々と答えた。
「我々の軍事力は、国連監視任務においてのみ行使される。我々は単独で剣を抜かない。科学と倫理の枠の中でのみ力を使う」
会場からは賛同の拍手が上がり、中国代表は無言で沈黙した。
史実では、日本はバンドン会議でほとんど影響力を発揮できず、むしろ「加害者」として慎重な立場を取らざるを得なかった。しかし改変世界では、日本は「科学と実戦を両立する未来国」として、アジア諸国に新しいモデルを提示していた。
夜、宿舎で行われた非公式会談。ビルマのウー・ヌー首相は黒田に耳打ちした。
「我々は武力を持たずに独立を守れるだろうか。もし再び列強が迫ったら?」
黒田は静かに答えた。
「その時は、日本の兵士が共に立つ。我々は科学を共有し、剣を分かち合う」
その言葉にウー・ヌーは目を潤ませ、「日本はかつての敵ではなく、未来の隣人だ」と語った。
この発言は翌日の新聞に大きく掲載され、「日本=アジアの安全保障の担い手」という新たなイメージを広めた。史実の冷戦下では米軍が東南アジアの防衛を担い、日本は基地提供国にとどまった。しかし改変世界では、日本自身が「地域の安全保障プレイヤー」として登場していたのである。
その波紋は広がり、フィリピンでは「日本と共同で海洋監視網を構築せよ」という世論が高まり、インドネシアでは「科学都市をジャカルタにも」という声が上がった。韓国では「日本が再軍備を進めるのでは」との不安と同時に、「共に北の脅威に対抗すべきだ」との意見も生まれた。
史実のバンドン会議は「非同盟」の旗を掲げ、米ソ冷戦に対抗する第三勢力の誕生を意味した。しかし改変世界の会議は、「非同盟」ではなく「科学連帯」として形を変えた。そこには、日本が剣と灯を両立させた姿が象徴的に刻まれていた。
会議の最終日、スカルノ大統領は声明を読み上げた。
「アジア・アフリカの未来は、かつての戦争に縛られるのではなく、新しい科学と倫理に基づく。日本の再生はその証である」
会場に拍手が広がった。黒田は深く一礼し、心の中でつぶやいた。
——この拍手は、かつての侵略を帳消しにするものではない。だが、未来に責任を持つという誓約なのだ。
こうして、日本はアジアに波紋を広げた。史実の日本が背負った「加害国」の重荷は消えなかったが、その上に「未来国」としての姿を重ねることで、冷戦下のアジアの地図は確実に書き換えられていった。




