第36章 国際政治の中の日本
一九五五年七月、スイスのジュネーヴ。
湖畔の会議場には、米国のアイゼンハワー大統領、ソ連のブルガーニン首相、英国のイーデン首相、フランスのフォール首相が集まり、いわゆる「四巨頭会談」が開かれていた。史実の記録によれば、この会談は冷戦緊張の緩和を意図しつつも、実質的な成果は乏しかった。日本はこの場に招かれることもなく、安保条約に縛られた「米国の従属国」に近い立場に置かれていた。
だが、この世界の会議場にはもう一つの席が用意されていた。
そこに座っていたのは、日本共和国の首相・黒田俊彦である。彼は小国の首脳ではなく、「科学と軍事の両面で世界を支える同盟国」の代表として迎えられていた。
「日本は共和制を選び、国体を失った。しかしだからこそ我々は新しい役割を得た。科学の共有と、実戦経験に裏付けられた平和維持活動だ」
黒田は英語でそう語り、会場の空気を変えた。
史実の日本は、この年にようやく国連加盟を果たす段階であり、外交発言力はほとんどなかった。だが改変世界の日本はすでに国連平和維持部隊に部隊を派遣し、南シナ海や中東で停戦監視を担っていた。その経験は米軍と肩を並べる実戦性を与え、同時に「軍事を国際的責務として使う」正当性を裏付けていた。
ジュネーヴの会場に入ったソ連代表団は、日本の席を見て目を細めた。
「かつての敗戦国が、十年で国際会議の席につくとは」
ある側近がつぶやいた。スターリン死後のソ連にとって、日本はもはや占領の対象ではなく、対抗すべき「科学軍事同盟国」として認識され始めていた。
一方、米国代表団の態度は複雑だった。アイゼンハワーは科学同盟を主導した張本人であり、日本を「灯を持つ国」と呼んだ。しかしペンタゴンの一部には「日本の台頭は米国の覇権を揺るがすのでは」との警戒感が芽生え始めていた。史実では日本は軍事的に従属していたため、こうした懸念はなかった。改変世界では「肩を並べる同盟国」となった分だけ、微妙な力学が生じていた。
会談の休憩時間、黒田はインドのネルー首相と廊下で立ち話を交わした。ネルーは微笑を浮かべて言う。
「あなた方は敗戦国でありながら、軍と科学を再生させた。アジア諸国にとっては一つのモデルだ」
黒田は首を振った。「モデルではありません。我々は過ちを犯した。だからこそ多様性と倫理を前提にせざるを得なかったのです」
二人の会話を、英仏の記者が食い入るように聞き取っていた。史実の日本が国際社会で「発言できる国」になるには、さらに二十年の歳月を要した。
同じ頃、東京の新聞社は大きな見出しを打った。
「日本、四巨頭会談に正式参加」
編集部では論説委員が語った。「史実の日本は安保の影に隠れた。だが今や堂々と表に立っている。だがこれは同時に、責任を背負うということだ」。
国会でも議論が巻き起こった。
「我が国は米国と同質化するあまり、独自性を失ってはいないか」
「いや、米国と肩を並べることでこそ、世界のバランスを保てるのだ」
議場の傍聴席には、移民の子どもたちが並び、英語交じりでその議論を聞いていた。国際化した社会は、国会の議論さえ二言語で受け止めることを可能にしていた。
夜、ジュネーヴの湖畔で黒田は通訳を介さずに記者の質問に答えた。
「日本は過去の戦争を消すことはできない。だが未来を描くことはできる。科学と軍事の両立は矛盾ではない。我々は剣を抜くために灯を持つのではなく、灯を守るために剣を持つのだ」
その言葉は、翌日の紙面で「未来国の論理」と見出しを付けられ、冷戦に疲弊する世界に新鮮な響きを与えた。
史実の1955年、日本はまだ国際政治の「傍観者」だった。だがこの改変世界では、敗戦国でありながらも科学と軍事を携え、国際政治の「担い手」として立っていた。
その姿はやがて二〇二五年、アメリカに匹敵する実戦経験を積んだ軍組織を持つ国家へと至る道の、確かな始まりだった。




