第30章 共和国の旗
一九五五年三月、永田町の丘に新しい旗が翻った。
菊花紋章は議事堂から取り外され、代わりに「日本共和国国会」の銘板が黒々と輝いていた。敗戦から十年、国体護持を認められず共和制へ移行した日本が、自らの「国民主権」を明確に掲げた証だった。
議場はまだ新しい木の香りに包まれていた。初代大統領が宣誓を終えると、ざわめきの中で拍手が広がった。最初に審議されたのは「日米科学技術協定」の承認である。銃や基地の話ではなく、研究成果の公開規範と倫理審査の共同基準。史実のこの年、日本は自由党と日本民主党が合同して自民党を結成し、社会党も左右統一を果たして「55年体制」が成立した。米国との安保条約を軸に、軍事的傘下に入り、冷戦構造の最前線に組み込まれたのが史実の1955年だった。だが、この世界では、政治の土台そのものが異なっていた。
「我々は戦争責任を裁かれ、軍を解体された。だからこそ科学で世界に責任を果たすべきだ」
社会民主党の若い議員が立ち上がり、堂々と訴えた。通訳席の米国大使館員が即座に英語へと変換し、傍聴していた外国記者たちがメモを取る。
「理念は結構。しかし基礎研究も装置も、相手は合衆国だ。対等の座を確保できるのか」
自由党の重鎮が反論した。史実の自民党が、安保条約の片務性を黙認しながら政権を維持していったことを思えば、この問いは自然なものだった。だが共和国議会では、対等性をめぐる議論こそが日常となっていた。
議場の隅では、共産党の代議士が原稿をめくりながら静かに準備していた。史実の1955年、共産党は非合法活動から復帰したばかりであり、国会の主役にはなれなかった。しかしこの世界では、多党制の一角として「倫理なき科学」への警鐘を鳴らす役割を担っていた。
傍聴席には作業着姿の男たちが並んでいた。名古屋の町工場主、川崎のボイラ職、横浜の配管工。戦前は財閥の下請にすぎなかったが、戦後は協同組合連携で自立を果たしていた。彼らにとって「協定」とは理念ではなく、ネジ規格や公差管理の現実問題だった。史実の日本では、この時期はまだ重化学工業が中心で、自動車や家電の大量輸出は始まっていなかった。だがこの世界では十五年先の科学技術が流れ込み、町工場はすでに国際規格を意識していた。
昼休み。国会食堂では、米軍払い下げの白磁の皿にスープが注がれ、英語と日本語の会話が飛び交う。外の屋台ではホットドッグが人気を集め、沖縄出身の青年がバイリンガルで値切っていた。沖縄は戦場にならなかったため、米軍基地も置かれず、国際観光都市として成長していたのだ。
午後の審議で「倫理審査」の条項に入ると、場内は緊張に包まれた。七三一部隊や九州大学の人体実験事件の記憶が、ここだけは隠せず浮かび上がる。「人に触れる研究は、軍事・経済の利益に優先して公開されるべき」と条文に明記されていた。史実では、石井四郎らが裁かれず、米国がデータを利用した。その免責が、戦後日本科学の影を作った。だが、この世界では真逆に、その過ちが明文化され、国家を律する掟になっていた。
「透明性は必要です。しかし企業秘密も守らなければ産業は育ちません。米国も同じ水準で開示するのですか」
自由党の女性議員が問いただす。答弁に立った外務官僚は淡々と答える。「共同審査、共同著作、共同出願。非対称は作らないと合意しています」。その言葉に記者席の外国人が顔を上げた。史実の日本が米国に従属し、対等性を欠いたことを知る者にとって、それは驚きだった。
夕刻、採決が行われた。賛成多数。槌が打たれ、協定は承認された。傍聴席の老人が涙を拭った。浅草の元旋盤工。「やっと図面が戦争から離れる」と小声で呟いた。史実の1955年、彼の仲間は「再軍備」「安保改定」という言葉に脅え続けていたに違いない。
外に出ると、春の空に共和国旗が翻っていた。赤い尾は、過去を断ち切るのではなく、未来へと伸びていく記憶の軌跡のように見えた。
その頃、ワシントンでは国務省の地下会議室で細い議論が続いていた。アメリカにとって日本は、軍事基地ではなく科学拠点となりつつある。若い空軍士官が言った。「日本の加工精度は驚異だ。彼らに人間を守る技術を任せよう。我々は剣を、彼らは灯を」。ホワイトボードには「MIL / CIV」と二列の線が引かれていた。軍と民、銃と治具、機密と公開。その境界線こそが、これからの同盟の輪郭を描いていた。




