第29章 二つの戦後
一九四八年十二月、東京・巣鴨プリズンで七人の絞首刑が執行された。東条英機をはじめとするA級戦犯の死は、史実の戦後を区切る鐘の音となった。連合国の新聞は「正義の達成」と書き、日本の新聞は「裁きの終わり」と報じた。死刑囚たちの名は記録に刻まれ、冷たい文字が時代の終止符となった。
一方、改変世界の横浜港でも、同じ日付に鐘が鳴った。大和艦上裁判においても七人の名が読み上げられ、判決文が宣告された。だが人々の記憶は曖昧だった。確かに鐘は鳴った。だが影を見た者は少なく、棺を見届けた者はいなかった。紙の記録は確かに存在するが、群衆の心には神話めいた残響として刻まれただけだった。
史実の戦後日本は、焼け跡からの復興だった。焦土に立つ人々は「敗戦」を実感し、戦犯裁判を「必然の償い」と受け止めた。東京裁判や横浜、マニラ、上海、シンガポールの法廷は、被害者の証言と血の匂いを伴って人々の耳に届き、罪と責任を深く刻みつけた。
改変世界の日本は違った。都市は無傷で残り、原爆も落とされなかった。国民は「徹底的に敗れた」という実感を持たず、戦犯裁判を「外からの裁き」と見なす傾向が強かった。大和の甲板で読み上げられた判決は儀式のようで、怒号も涙も少なく、ただ静かな頷きが波のように広がった。
山下奉文の沈黙は、史実では「敗軍の将の罪を受け入れた姿」として記録された。改変世界では「潔い軍人」として美化され、英雄と戦犯が同じ首に二つの名札を掛けられた。
九州大学事件は、史実では「医師の罪」として厳罰に処された。改変世界では未来科学の遺物と並置され、「科学は救済か破滅か」という抽象的な問いとして受け止められた。
七三一部隊は史実でも裁かれなかった。改変世界では「未来科学との取引」という影を伴って、いっそう神話的な重みを帯びた。
二つの戦後――。
ひとつは、焼け跡に立ち、冷徹な判決を受け入れた戦後。
もうひとつは、無傷の都市に立ち、曖昧な鐘の音とともに歩み始めた戦後。
やがて時間が流れ、両者の記憶は絡まり合った。歴史書には冷たい数字と名前が並ぶ。だが人々の口承には「大和の甲板で聞いた」という曖昧な声が混じる。速記官の紙は正確に記録を残し、民衆の記憶は波にさらわれる。正義と沈黙、証拠と伝承。その二本の縄が撚り合わされ、日本の戦後は二重の影を背負うことになった。
戦争犯罪は裁かれたのか。あるいは、裁かれなかったのか。答えは一つではない。
史実の正義と、改変世界の沈黙。その両方が同時に鳴り響くとき、日本人の耳には二つの鐘の音が重なって届く。
それこそが、「二つの戦後」の最も深い真実だった。




