第26章 九州大学事件
福岡の街が静まり返った一九四六年の春、法廷の扉が重く開かれた。ここで裁かれるのは将軍でも大臣でもない。白衣を着ていたはずの人々――九州大学医学部の教授と医師、そして若い助教たちだった。史実の記録に残る彼らの罪状は、撃墜された米軍捕虜を「研究材料」として生体解剖に供したことである。
証言台に立った元看護婦は、震える声で語った。
「麻酔をかけたと言っていましたが、兵士は泣き叫んでいました。肺を取り出し、血が床に流れました」
通訳の声が冷たく響き、傍聴席にいた米軍将兵の顔は硬直した。史実の裁判官は、この証言を「残虐行為の直接証拠」として記録し、死刑判決に重きを置いた。
一方、改変世界の横浜港、大和艦上裁判でも、この事件は取り上げられた。だが雰囲気は大きく異なっていた。無傷で残った東京から集まった市民にとって、「捕虜を解剖した」という言葉は、想像を絶する出来事であり、どこか遠い島の伝説めいて聞こえた。甲板の傍聴席には沈黙が広がり、怒号も涙も少なかった。怒りは届くが、焼け跡を持たぬ都市には実感が伴わないのだ。
史実の九州大学裁判は、極めて具体的だった。 scalpels、sutures、血清、麻酔薬の量――すべてが証拠として並べられた。白衣が軍服と同じように「命令」を口実にしていたことが暴かれる。教授は「軍からの指示だった」と繰り返し、若い医師は「逆らえば自分が処刑されると思った」と証言した。だが裁判官は冷ややかに告げた。
「医師は生命を救う者である。その誓いを裏切った者に、言い訳は許されない」
大和裁判でも同じ証言が読み上げられたが、そこで判事が一行を加えた。
「未来の科学がいかに進んでも、倫理を失えば人を救う道具は凶器となる」
これは史実にはない注釈であり、甲板に集まった人々はざわめいた。海自の医療装置の一部が「遺物」として展示されていた背景もあり、科学と倫理の関係がより鮮明に意識されたからである。
処刑の日、史実の福岡刑務所では、教授と助教授、医師数名が絞首刑となった。縄が軋み、記録係が淡々と「死亡確認」と記した。彼らは「私は命令に従った」と最後まで言い張り、懺悔の言葉は少なかった。
大和の港町では、この処刑の報告が鐘の音として響いた。だが人々の記憶は曖昧で、「確かに教授の名が呼ばれたが、影を見た者はいなかった」と後に語り継がれる。
この二重の記録は、科学と戦争の関係をめぐる日本人の記憶をねじれさせた。史実の記録は冷徹に「医師の罪」と断じたが、改変世界の記憶は「科学の影」として曖昧に漂った。白衣は血に染まり、同時に未来の医学への警告となった。
ある速記官は、大和の余白にこう書き残した。
「白衣は軍服よりも冷たく見えた。沈黙は将軍のものよりも重かった」
九州大学事件は、戦争犯罪の中でも異質な輝度を放つ。軍人ではなく学者が裁かれたという事実が、人々に「知識と倫理」の関係を突きつけた。史実の厳罰と、改変世界の曖昧な記憶。その二つは絡み合い、戦後の日本人に「科学の罪」という縄目を残したのである。




