第20 章 横浜の法廷
敗戦から間もない一九四六年、横浜の連合国軍司令部の敷地に設えられた法廷は、毎日のように人であふれていた。だが傍聴席を埋め尽くしていたのは、日本人ではなく、米軍将兵や連合国の記者、被害国から派遣された視察官たちであった。翻訳機を通して流れる声に耳を傾ける者、メモを走らせる者――法廷の空気は国際的であり、日本人傍聴人はその中で肩身を狭くして座っていた。
裁かれるのは東京の大物指導者ではなく、現場で捕虜を虐待し、処刑し、市民を痛めつけた将兵たちであった。彼らの名は新聞の一面を飾ることは少ない。だがフィリピンやオランダ領東インドから来た証人にとって、その名は肉親の死や村の焼失と直結していた。横浜法廷は、彼らにとって「正義の回復」であり、傍聴席の外国人たちの眼差しは鋭く、冷たかった。
史実の横浜裁判は、千人を超える被告を扱い、多くが捕虜虐待や輸送船沈没後の見殺しといった「日常の戦争犯罪」に関わっていた。審理は短く、判決は容赦がなかった。死刑、無期、禁固――淡々と読み上げられる文言を、通訳の声が無機質に繰り返す。
その一方で、改変された世界線の横浜では事情が異なっていた。港に浮かぶ巨大な艦――戦艦大和の甲板に設えられた「艦上裁判」が全国民の耳目を奪っていたからである。東京が焼かれず、原爆も落とされなかった日本では、裁きの象徴は市ヶ谷や横浜ではなく、この大和の上にあった。大和裁判は日本人が多数傍聴し、新聞・ラジオが国内向けに詳細を伝えた。対して横浜裁判は、外国人傍聴者の多さゆえに「外からの裁き」として受け止められ、国民の心には遠い存在となった。
横浜で読み上げられた捕虜の証言は凄惨だった。
「鉄条網の中で食糧は乏しく、病人は治療も受けられずに倒れた」
「護送船が撃沈されたあと、海に浮かぶ捕虜を日本兵は見殺しにした」
史実では、こうした証言が揺るぎない事実として記録され、判決を重くした。
だが大和艦上裁判では、同じ証言が「記録」として読み上げられるにとどまった。波音に混じる声は、儀式めいて響いた。都市を焼かれず、飢餓の恐怖を味わわなかった日本人にとって、遠い戦場での残虐は「現実の痛み」ではなく「記録上の悲劇」として受け止められたのだ。
横浜の裁判官は冷徹に宣告した。
「被告〇〇、捕虜虐待および殺害の罪により、絞首刑」
その瞬間、外国人傍聴人の表情には安堵が浮かんだ。彼らにとって、この裁きは祖国への償いであり、復讐の完結だった。
しかし日本人傍聴人は沈黙し、目を伏せた。罪を認めながらも、それを自国民が断罪される現実として直視できない葛藤がそこにあった。
史実の横浜刑務所で、死刑は実際に執行された。木板が落ちる乾いた音、遺体を覆布で包む看守の手――「儀式」のような規則正しさがあった。
改変世界の記録では、同じ日付に「艦内にて処刑」との報告が残る。だがその場にいた者の証言は食い違う。「確かに影を見た」と語る者、「いや鐘の音しか記憶にない」という者。
こうして横浜裁判は、日本の戦後に二つの影を落とした。
一つは、外国人傍聴人の前で冷徹に執行された史実の裁き。
一つは、日本人が多数を占めた大和艦上裁判の中で、遠い記録として響いた記憶。
両者は絡み合い、後の山下裁判や九州大学事件、そして七三一部隊の免責の物語へと連なっていく。




