第19章 二つの記憶
戦後の日本は、二つの影を抱えて歩み始めた。
一つは、市ヶ谷の瓦礫に立つ法廷と、巣鴨プリズンの絞首台。記録映像に残され、新聞に報じられ、教科書に記される“公式の裁き”。
もう一つは、大和艦上に設えられた仮設法廷と、波音に溶けた処刑の記憶。港町の人々が「確かに見た」と語りながら、誰も確実な証拠を示せない曖昧な影。
戦後十年、昭和三十三年。
市ヶ谷の法廷跡には石碑が建ち、瓦礫に花が供えられていた。修学旅行の生徒たちが訪れ、教師が「平和に対する罪」の意味を説明する。写真集には、裸電球の下で読み上げられる判決文が鮮明に残されていた。
だが同じ頃、横浜港でも老人が孫に語っていた。
「大和の甲板で、鐘が鳴ったんだ。東条も松井も、あの艦で最後を迎えた」
孫は首をかしげる。「でも教科書には巣鴨と書いてあるよ」
老人はしばらく黙り、海を見つめた。波音は答えを返さなかった。
東条英機の名は、史実では「開戦の首相」として断罪された。
市ヶ谷の記録には、冷たい責任の言葉が並んでいる。
だが大和の記憶では「国を焼かせなかった代償を一身に背負った将」として伝えられる地域もあった。どちらが真かは問えない。ただ二つの声が縄のように絡み合い、戦後日本の議論のたびに顔を出した。
松井石根も同じだった。
史実では南京の統帥責任を問われ、厳しい断罪を受けた。南京の影は消えず、国際社会に刻まれた。
だが大和の甲板で彼を見た者の中には、「最後まで祈る軍人」としての像を残した人々もいた。罪人か、祈り人か。記録と記憶の二重写しが、彼の名を曖昧にした。
広田弘毅はさらに揺らいだ。
史実では「沈黙の責任」を問われ死刑となり、その簡潔な遺書が虚無とされた。
だが大和の記憶では、禁固刑に減刑され、のちに病に倒れるまで牢獄に生きたという物語が伝わった。外交官の沈黙は罪か節度か――その解釈もまた、二つに割れ続けた。
戦後二十年、昭和四十三年。
テレビの白黒映像で「東京裁判特集」が流される。アナウンサーの声は市ヶ谷の法廷を「平和の礎」として語る。
だが画面を見つめる老人の脳裏には、甲板に差した光と鐘の音がよみがえる。映像には映らない「大和の裁き」が、なお彼の中で息づいていた。
やがて世代が交代し、子どもたちは二つの物語を聞かされて育った。
学校では市ヶ谷の裁きを学び、家庭では「大和の鐘」を伝え聞く。記録は一つ、記憶は二つ。日本の戦後はそのねじれを抱え込んだまま進んでいった。
平成の時代になると、研究者たちはこの矛盾を調べ始めた。公文書館の資料は巣鴨での執行を示すが、横浜の港町には「大和艦内で処刑を見た」という証言が数多く残っていた。学会は混乱し、結論は出ない。だがその議論自体が、歴史を生きる日本人の証だった。
戦後八十年を越えても、二つの影は消えなかった。
市ヶ谷の石碑に花が絶えず、大和を模した記念館には「処刑の鐘」の展示がある。
人々はどちらかを選ばない。二つを併せ持ち、縄のように絡み合った記録と記憶を、そのまま背負って生きている。
東条の硬い言葉、松井の祈る声、広田の沈黙。
それらは瓦礫の街と無傷の港で異なる意味を持ちながら、同じ国の戦後を形づくった。
――鐘は二度鳴ったのだ。
一度は市ヶ谷で、もう一度は大和で。
どちらの音も、確かに日本人の胸に残っている。記録の鐘と記憶の鐘。その二つの響きが重なり合い、やがて戦後という長い道を照らしていった。




