第8章 《並び立つ旗》
礼砲の轟きが過ぎ去った後、甲板に奇妙な静寂が訪れた。
艦橋の頂には旭日旗が、そしてその隣には連合国旗が翻っている。二つの旗が同じ風を受け、絡み合うように揺れる。視線を上げた人々の胸に去来したのは、誇りでも屈辱でもなく、言葉にしがたい混ざり物だった。
史実のミズーリ艦上では、星条旗が圧倒的な存在感を放ち、日本の旗は影すら許されなかった。
だが、この世界の大和では、二つの旗が並び立ち、互いに相手を押し潰すことなく、同じ空に翻っていた。
沿岸に集まった群衆の反応は一様ではなかった。
若い母親は胸に子を抱きながら涙を流した。
「生き延びられた……それだけでいい」
隣に立つ復員兵は唇を噛み、旗を睨みつけていた。
「これが敗戦でないと言えるのか? 俺たちが戦地で失ったものは何だった」
さらに別の老人は目を細め、静かに呟いた。
「いや、これは滅びではない。国はまだ続いている。今日がその証だ」
同じ旗を見ても、人によって映る意味は異なった。
甲板上でもまた、兵士たちの胸に去来するものは複雑だった。
若い水兵は小声で隣に言った。
「これからはアメリカと肩を並べるのか……」
答えは返ってこなかった。仲間はただ敬礼を続け、目を逸らした。
沈黙の中に、疑念と期待が同居していた。
その時、マッカーサーが艦橋前に立ち、声を張った。
「今日ここに戦争は終わった。しかし日本は敗者ではない。日本は未来を選び、我々と共に歩む」
通訳が声を張り上げ、湾岸の群衆に届いた。
人々の間から歓声が上がる一方で、沈黙する者もいた。言葉をどう受け止めるかは、聞く者の過去と心情に委ねられていた。
その頃、一人の新聞記者は手帳に殴り書きをしていた。
「敗北か、出発か」
彼には答えが見えなかった。ただ、史実に刻まれるはずの「屈辱の映像」とは違うものを目にしていることだけは確かだった。
「この光景は、やがて神話と呼ばれるだろう」
そう記しながらも、彼自身が信じ切れていないことを自覚していた。
夕刻、式典を終えた大和は静かに錨を下ろした。
夕陽に赤く染まった空の下、二つの旗はなおも揺れていた。
少年は父に問うた。
「お父さん、ぼくらは負けたの?」
父は長い沈黙の後に答えた。
「負けたのかもしれない。だが……終わらせたのも、俺たちだ」
その答えを理解できぬまま、少年は旗を見上げた。彼の瞳に映ったのは、沈まぬ巨艦と並び立つ二つの旗――未来を指し示す幻のような光景だった。
甲板に立つ有賀艦長は、艦首を見やり、静かに呟いた。
「艦は沈まず、国も沈まなかった。だが……沈まぬことが未来を保証するわけではない」
その言葉は誰に届くこともなく、夕暮れの風に消えた。
だが、彼の心に芽生えた懸念は、後に「戦後日本の軌道」を左右する問いとして再び浮上することになる。
二つの旗は夜風に揺れ続けた。
勝利か敗北か――誰も断じられぬまま。
それでも、その並立は確かに「沈まぬ国の証」として、人々の目と記憶に刻まれた。




