第7章 《曖昧なレンズ》
調印台の少し後方、甲板の縁に近い場所に、黒光りする三脚が林立していた。カメラの列。レンズが一斉に文書台とその周囲を狙っている。フィルム交換に追われる助手たちの手は汗で滑り、シャッターを押す指がわずかに震えていた。
史実では、ミズーリ艦上での降伏調印が映像として刻まれた。重光葵が足を引きずり、署名の手が震える様子、冷然と見下ろす米兵の顔――それらは「日本の敗北」を世界に示す映像として繰り返し流された。
だが、この世界でレンズに映る光景はまるで違っていた。
外務大臣・重光葵が堂々と署名する姿。参謀総長・梅津美治郎が迷いなくペンを走らせる姿。背後に聳える巨砲は沈黙しつつも威圧感を放ち、署名する者たちを見守るかのように佇んでいた。
米軍の報道将校がファインダーを覗きながら、隣の技師に小声で言った。
「……これでは、日本が敗者に見えないな」
技師はレンズを拭いながら答えた。
「それでいいんだろう。米国は日本を壊すのではなく、使う気でいる」
その会話を、近くのソ連記者が聞きとがめ、顔をしかめた。彼のノートには大きな文字でこう書きつけられた。
「米国は日本に威容を誇示させる。これは敗北の儀式ではなく、未来の同盟の演出だ」
苛立ちが筆圧に表れ、紙面が破れんばかりになった。
一方、日本の新聞記者は原稿用紙に必死に書き付けていた。
「焼け跡を取材するはずだった我々が、いま目にしているのは沈まぬ大和の甲板だ。これは敗北か、それとも始まりか」
彼の手は震えていたが、それは屈辱ではなく混乱から来る震えだった。
近くでは従軍画家がスケッチブックを広げ、鉛筆を走らせていた。彼の視線は文書よりも、背後に聳える巨砲と、その影の中に立つ日本代表たちへ注がれていた。
「これは敗戦の絵ではない。……いや、そう記録してしまえば歴史が歪む。しかし、目に映るのはどうしても“敗北”の姿ではない」
彼の手は迷いながらも線を重ね、そのスケッチは後に「幻の一枚」として人々の記憶と入り混じることになる。
沿岸に集まった群衆の声もまた、記録者の耳に届いた。
「敗けたはずなのに、誇らしく見える……」
「国は終わらなかった。それでいいじゃないか」
「だが、本当にこれで許されるのか……」
その断片はマイクに収録され、紙に残され、後に互いに矛盾した証言となっていく。
礼砲が鳴り響き、旗が揚がった瞬間、すべてのカメラが一斉にシャッターを切った。
フィルムに焼き付けられたのは、旭日旗と連合国旗が並び立つ姿。
それは歴史の証拠であると同時に、見る者の立場によってまったく意味の異なる映像だった。
米国のアーカイブでは「日米の協調の始まり」として解説され、ソ連の新聞では「敗北を偽装する米国の策謀」と糾弾された。
日本国内では、「沈まぬ艦での降伏」という現実離れした舞台が、人々の記憶の中で次第に霞み、やがて「幻の三ヶ月」と呼ばれる歴史の曖昧さに埋もれていった。
大和の甲板に並ぶ記録者たちは、最後にもう一度レンズを向けた。
そこに映っていたのは、署名を終えた文書の束。
彼らの誰もが直感した。
――これは終わりの証ではなく、始まりの契約書だ。
しかし、その確信すら後に揺らぎ、人々の記憶の中で「敗北」と「出発」の境界はぼやけていく。
カメラのシャッターが最後に一度切られ、音が甲板に響いた。
その乾いた音は、やがて「歴史」と「神話」を分かつ唯一の境界線となった。




