第5章 《招かれた者たち》
午前九時半。
東京湾を渡る風は澄み切り、遠く房総半島の山並みまで見通せた。湾内の海面には微かなさざ波が立ち、停泊する艦艇の艦影を揺らしている。群衆の視線はただ一つ、中央に鎮座する戦艦大和へ注がれていた。
やがて小艇の列が大和の舷側へと到着する。米海軍の将兵に先導され、連合国代表団が一人、また一人とタラップを上がってくる。靴音が規則正しく鉄板を叩き、甲板に設けられた白布の通路へと響き渡る。
最初に姿を現したのは、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥であった。
長身にカーキ色の制服、口に銜えたコーンパイプ、濃いサングラス。その姿は湾岸の群衆からも一目でわかり、ざわめきが広がった。
「マッカーサーだ……」
声なき声が波のように重なり合う。
マッカーサーは数歩進み、立ち止まった。
彼の前に広がるのは、四十六センチ三連装砲塔二基。その黒い砲口は、まるで黙した巨人の瞳のように空を向いていた。
随行の米将校が小声で言った。
「もしこの艦が最後まで動いていたら……」
マッカーサーは答えず、ただ短く息を吐き、足を進めた。
続いて、イギリス代表団が登艦した。濃紺の制服をまとった海軍提督、軍帽を深くかぶった外交官。彼らの視線もまた、大和の艦首に掲げられた旭日旗へ吸い寄せられた。
「未だ降ろされていない……」
その旗の下を通るとき、彼らはほんのわずかに顔を強張らせた。敗戦の象徴として掲げられるはずの旗が、ここではなお堂々と翻っていたからである。
ソ連代表は重苦しい表情で続いた。毛皮のコートの襟を立て、鋭い眼差しを艦橋に投げる。彼の心中には、不満が渦巻いていた。――なぜ日本の降伏が、米艦ではなく日本艦の上で行われるのか。自国の血を流した東部戦線を思えば、納得し難い構図だった。
最後に中国代表団が到着した。中華民国の旗が小艇の船首に掲げられ、艦上に上がると同時に軍楽隊が短く歓迎の楽を奏した。蒋介石の代理人は深い礼をし、言葉を選ぶように口を開いた。
「この場が、東亜の再生の始まりとなりますように」
その声は甲板に並ぶ日本将校たちの耳に届き、微かなざわめきを生んだ。
調印の場へ向かう一行を、大和の乗員たちは沈黙のまま見守った。
整列した水兵の制服は真新しく、胸には勲章が整然と輝く。敗北の軍ではなく、未だ戦える軍の威容を示すかのようだった。
米英の記者たちが双眼鏡を構え、連写式カメラのシャッターを切った。
「屈辱の行進」と書くべきか、「異例の儀礼」とすべきか。記者たちの間でも意見は割れた。だが少なくとも、ここにある光景は、単純な敗北の姿とは言い切れなかった。
艦橋の上から、有賀艦長がその列を見下ろしていた。
彼の胸には複雑な思いが渦巻いていた。
大和は沈まなかった。だがそれは勝利でもなければ、完全な敗北でもない。
いま目の前で進むのは、「国の滅亡を防ぐための行進」。
有賀は軍刀の柄に手を置き、低く呟いた。
「この艦は、祖国の終わりではなく、新たな始まりを見届ける」
やがて連合国代表団が調印台の前に整列した。白布の下、机の上には降伏文書が置かれている。
マッカーサーは周囲を見渡し、軽く頷いた。
「この艦の甲板で調印が行われることを、我々は歴史に刻む。日本は自ら戦争を終わらせる意志を示した」
その声は、風に乗り、甲板を取り巻くすべての者の胸に響いた。
史実のミズーリ艦上では、勝者の宣告として響いた言葉が、ここでは「共に未来を築く宣言」に聞こえた。
艦尾にたなびく旭日旗と、連合国旗。二つの旗が同じ風に揺れ、湾内に集う群衆の目に映った。
人々は誰も口にしなかったが、その場に漂う空気は確かにこう告げていた。
――これは屈辱ではない。歴史の交差点だ。
東京湾に集まった群衆の中で、一人の少年が父に問うた。
「お父さん、大和は負けたの?」
父はしばし沈黙したのち、答えた。
「いいや……負けたんじゃない。終わらせたんだ」
その言葉に、少年は視線を艦に向けた。朝日に輝く巨艦の影は、彼の瞳に永遠に刻まれた。




