第4章 《巨艦の影》
1945年9月2日。
東京湾の水面は、夏の名残を湛えた陽光を受け、まるで無数の鏡を砕いて撒いたかのように輝いていた。早朝から、港湾沿いには人の群れが集まっている。大人も子供も、ある者は日の丸の小旗を振り、ある者はただ無言で沖を見つめていた。目に映るのは、灰色の艦列。米英をはじめとする連合国の艦艇が、整然と並んでいる。世界の勝者が一堂に会する光景だった。
だが、湾の中央にひときわ大きな影を落とすものがあった。
――戦艦大和。
全長二百六十三メートル、排水量七万トン。かつて「無用の長物」と揶揄されながら、ついに沈まずに終戦を迎えた巨艦。その艦首には旭日旗が掲げられ、潮風を受けてはためいている。甲板には白布が張られ、木製の机と椅子が並び、降伏調印式の準備が整えられていた。
史実の記録では、この日、米戦艦ミズーリが主役だった。連合国旗に彩られた甲板で、日本代表団は敗者として署名を行い、屈辱の瞬間を世界に晒した。だが、この世界では光景がまるで違っていた。日本の降伏は、己の艦、その象徴たる大和の甲板で行われるのだ。
東京の人々にとって、それは単なる敗北の証ではなかった。
「大和は沈まなかった」――その事実は、焼け野原になるはずだった東京を守った証でもある。東京大空襲も、広島長崎の原爆も、この世界には存在しない。街は瓦礫に沈まず、瓦屋根の家並みが残り、浅草や銀座の通りも生き延びていた。群衆の誰もが、これから目にする式典を「国が滅びる儀式」とは思っていなかった。むしろ「国が未来へ渡る扉」と感じていた。
午前七時。
艦内では慌ただしい動きが続いていた。通路には儀仗兵が整列し、磨き上げられた軍靴が板張りの床を打つ音が響いた。制服の袖には皺ひとつなく、銃剣は陽光を反射して眩しい。敗戦の儀式に臨むとは思えぬ緊張と威厳。艦長室から艦橋に至る廊下には白布が敷かれ、要人の通路が設えられていた。
有賀艦長は軍刀を佩き、短く命じた。
「遅滞なく式典を進めよ。大和は最後まで国の顔であることを忘れるな」
その声は鋭く、艦内の空気をさらに引き締めた。兵士たちは無言で頷き、各自の持ち場へと散っていった。
午前九時。
連合国代表団を乗せた小艇が、次々に大和の舷側へと接近する。舷梯に降り立った彼らを、大和の儀仗兵が迎える。軍楽隊が静かに国際礼譜に則った行進曲を奏で、重厚な旋律が海面にこだました。
先頭に立つのは米陸軍のダグラス・マッカーサー元帥だった。背の高い体にカーキ色の制服、口にはコーンパイプ。サングラス越しの視線が、巨大な主砲群をなぞった。
「これが……日本の大和か」
随行の米海軍士官が低く呟く。彼らは互いに視線を交わし、もしこの艦が最後まで出撃していたなら、太平洋戦争の帰趨はどう転んだかと一瞬想像した。
だが今、その巨砲は沈黙し、甲板は「敗北」ではなく「終結」の舞台として整えられていた。
甲板に姿を現した日本代表団の列。
外務大臣・重光葵は足を引きずりながらも、毅然とした顔で前を向いた。
参謀総長・梅津美治郎もまた、敗者の姿ではなく「戦争を終える者」としての風格を漂わせていた。
沿岸の群衆がその姿を見て息を呑む。誰もが「国は滅びなかった」と心に刻んだ。
東京湾を見下ろす丘では、新聞記者たちが双眼鏡を手に原稿を走らせていた。
「これは史上初めてだ。敗戦国が、己の艦で調印を行うなど……」
若い記者は興奮を隠せなかった。老記者は静かに答えた。
「これは敗北ではない。始まりなんだ。今日をどう書き残すかで、我々の戦後が決まる」
史実との分岐は鮮烈であった。
史実の日本は、ミズーリの甲板で「敗者の署名」を強いられた。だが、この世界の日本は、大和の甲板で「自ら選んだ終結」に署名しようとしている。
巨大な灰色の艦影は、そのまま「沈まなかった日本」の象徴だった。




