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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン12

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第3章 《証人たちの孤独》



 夜半過ぎ、雨宮は机の角に両肘を置き、黒い表紙の日誌を開いた。罫線は薄く、紙はやや黄ばんでいる。昭和十年式の万年筆で、彼は同じ一文を三度、四度と書き直した。


 ——我々は確かに戦った。


 書き出してしまえば簡単なはずの言葉が、いざ形にしようとすると、薄い霧のように輪郭を失う。自分の指は確かに砲弾の起爆を数え、甲板を叩く雨脚の向こうに、見慣れぬ艦載機のシルエットを見た。沖縄の海を這う潮流、三式弾の炸裂が空に描いた火の花、潜航中の「そうりゅう」から上がってきた暗号の短い息遣い。——すべてを思い出せる。ところが、口にすればするほど、周囲の人間は柔らかな笑いとともに、彼の言葉を指で弾き返す。


 「出撃していないのに、どうやって戦うんだい」


 雨宮は煙草を消した。灰皿の縁に残る白い粉は、海霧にふれた砲塔の外板のざらつきを思い出させた。窓の向こう、薄い雨が電線を濡らしている。彼が住む下宿は駅から少し離れた坂の途中にあり、夜になると、遠くを走る貨物列車の音が、波のようにのしかかってくる。


 机の引き出しから薄い封筒を取り出す。中に入っているのは、小指ほどの灰色の破片だった。手触りは奇妙に滑らかで、爪で弾くと、金属とは異なる鈍い音が戻る。沖縄の海岸で拾った、と渡されてから、ずっと手元に置いてある。あの村の古老が言った。「ときどき、海が吐き出す」。それは祠の横に積まれた貝殻と一緒に、何十枚も並べられていた。


 ——未来の装備の、欠片。


 自分の中でそう結論づけることは簡単だ。だが、それを誰に渡せばいい? どう説明すればいい?


 雨宮は日誌のページをめくり、古い頁に目を落とした。そこにはびっしりと短い記録が並んでいる。「四月十七日 敵航空 百五十」「五月二日 電信“Reagan”受信」「五月十九日 “そうりゅう”発射管損傷」。文字は当時の、まだ震えを知らなかった筆致で書かれている。彼がこの日誌をつけ始めたのは、再び「戻って」からだ。戻る以前の自分——1945年の彼は、こうした書きものを「面倒」と感じる男だった。だが未来の海に投げ出され、そこからまた過去に戻ったあと、彼は初めて、記録が記憶を支える構造を、皮膚の下で理解した。


 記録は残る。記憶は消える。ならば、自分の指で刻んでおくしかない。


 日誌を閉じると、雨宮は帽子とコートを手に取り、戸締まりを確かめて外に出た。雨は細く、冷たく、春の匂いと錆の匂いを混ぜていた。向かった先は、駅前通りから一本外れた路地にある電気部品店だ。戦前からの店だが、棚には戦後に流れ込んだ新奇な部品が雑多に並べられている。整流器、抵抗器、トランス……そして、彼の目当ては別だ。ガラスケースの隅、型番のない銀色の端子。掌に乗せると、その冷たさは沖縄の潮にも似ていた。


 「それ、何の部品かねぇ」と、店主が首をひねる。「米軍払い下げ品の混ざりもんですよ」


 「譲ってほしい」


 店主は肩をすくめ、安い値を言った。雨宮はその場で包み、店を出た。ガラスに映る自分の顔は、年齢よりも老けて見えた。彼は笑ってみたが、口角はうまく上がらなかった。


 研究所の若い研究官——佐伯啓介の名を、彼は新聞の小さな記事で知っていた。防衛研究所の資料庫で、沖縄戦に関する矛盾した記録が見つかった、という数行だけの報せ。それでも、雨宮には十分だった。なぜなら、その数行が、自分がこの十年抱え続けた孤独の形にぴたりと嵌まったからだ。


 彼は封筒を二重にし、簡単な手紙を添えた。差出人の名は書かない。宛先だけを、震えない手で丁寧に記す。


 ——これは、沖縄の海が吐き出した欠片です。

 ——あなたが見つけた記録の先に、これがある。

 ——信じてください。

 ——我々は確かに戦った。


 ポストに落とす動作は、思いのほか軽かった。封筒の軽さが、そのまま肩から重しを一枚剥がしたように思えた。


 数日後、雨宮はもう一人に宛てて手紙を書いた。元砲術長、山名恒雄中佐。あの人の声は、今でも耳の奥に鮮明に残っている。甲板に叩きつける雨の音の向こうで、短く、迷いなく命令を重ねる声。沖縄から帰った後の座談会で、孤立したあの背中も、彼は見ていた。


 ——中佐。

 ——あの三ヶ月を、私は覚えています。

 ——あなたが見た炎と、私が見た空は、同じ色をしていました。

 ——いつか、話をさせてください。


 封をして、宛名を書いて、ポストへ。二度、投函口が軋む音がした。


 返事は来ないかもしれない。来たとしても、誰かが先に封を切って、無かったことにするかもしれない。そう思うと、胸の内の小さな火は、薄く、しかし消えなかった。消えないのは、あの夜空で膨れあがった火の花の残光だ。三式弾の破片が空気を裂く音。敵の編隊が沈むように崩れていく光景。そのすべての上に、確かに「Reagan」の灰色の甲板があった。


 夜、夢を見た。艦橋から見下ろす海に、二つの世界が重なって見える。手前にあるのは、昭和の海。遠くにあるのは、見慣れた灯台もない、無表情に整えられた未来の海。二つの海の境目に、巨大な影が横たわっている。最初は大和だと思ったが、違った。あれは「記憶」そのものだった。波間に浮かび、ある瞬間は浮き上がり、次の瞬間には沈んでいく。手を伸ばしても掴めない。掴んだと思えば、指の間をすり抜けて消える。


 ——記憶は、海だ。


 目を醒ますと、枕元の時計は午前三時を少し回っていた。雨は止み、どこかから猫の鳴く声がしている。彼は台所に立ち、湯をわかし、濃い茶を淹れた。口に含むと、苦味の底に、微かな塩の味がした。沖縄の風が、まだ喉の奥に残っている。


 翌朝、見知らぬ若い男が下宿の前に立っていた。黒縁の眼鏡、背広、鞄。名刺には、防衛研究所・戦史研究官とある。佐伯啓介。雨宮は、驚きより先に、ほっとした。


 「突然の訪問をお許しください。封筒をいただきました」


 「貴方が、佐伯さんか」


 「はい。これを、直接お返ししたくて」


 佐伯は封筒から、灰色の欠片を取り出した。朝の光にかざすと、金属でも石でもない、何か別の素材の鈍い光沢が、薄く揺れた。雨宮は頷いた。


 「沖縄の海が吐き出した。祠の横に積まれていた。拾ったのは、村の子供だ」


 「材質は、まだわかりません。ただ……」佐伯は言葉を選ぶ。「この欠片の表面に、ごく小さな刻印がありました。数字ではない。符号です。当所の電信紙片と、同じ型の……」


 雨宮は椅子を勧め、二人は向かい合って座った。小さな卓上に、茶と、封筒と、欠片が置かれる。窓の外では、朝の洗濯物が風に揺れていた。


 「貴方は、あの三ヶ月を」佐伯が問う。「覚えているのですね」


 雨宮は一拍置いて、頷いた。


 「覚えている。いや、あれは“消えない”と言った方が近い。忘れようとしても、体のどこかに残っている。背中の筋肉に、耳の骨に。夜になると、足が甲板の感触を探し、指は起爆のリズムを数え始める」


 「なぜ、他の方は……」


 「わからない。私は、ある瞬間に“戻った”からだと思う。別の海から。この世界の時間へ。だから、二つの海の塩が、まだ混じっている」


 佐伯は沈黙した。沈黙の中で、彼の眼だけが鮮やかに動いている。記録、人、破片——三つの点が結ばれて、一本の細い線になった手応えを、彼は掴みつつあった。


 「山名中佐に、手紙を出しました」雨宮が言った。「もし会えたら、あの人の言葉は、記録を救う。私の言葉では足りない」


 「すでに、中佐には接触しています。ただ、同僚の多くが否定して……」


 「だからこそ、二人分の記憶を並べる意味がある」


 佐伯は頷いた。鞄から、もう一つの封筒を取り出す。そこには、薄い青の紙が入っていた。電信紙片の複写だ。「Reagan」「Soryu」。符号は整然としているが、その整然さが、逆にこの世界の文脈からは浮いている。


 雨宮は指でなぞり、笑った。うまく笑えない顔が、少し和らいだ。


 「送信の“癖”がある。これは、あいつだ。石倉の指だ」


 「石倉上等兵を、ご存じで?」


「同じ当直に入った夜がある。打鍵の音に、人間の癖が出る。これは、あいつの音だ」


 佐伯は目を細めた。紙の上に、打鍵のリズムがふっと浮かび上がるような感覚に襲われる。記録の中に、人がいる。人の中に、記録がある。


 「お願いがあります」と、雨宮が言った。「この欠片を、誰にも“異物”と決めつけさせないでほしい。材質がわからないからといって、存在が否定されるのは違う。あなたは記録を持っている。私は記憶を持っている。その両方が揃えば、三ヶ月は“幻”ではなくなる」


 「やってみます」佐伯は静かに応えた。「ただ、時間がかかる」


 雨宮は首を振った。「時間は、もう壊れている。かかるとか、かからないとか、そういう尺度で測れない場所に、あの三ヶ月はある」


 二人はしばらく黙って茶を飲んだ。窓から差し込む光の粒が、欠片の表面に小さく瞬いた。外で子供が笑い、女が洗濯物を叩く音がした。今日という日常は、確かにここにある。だが、その底に沈殿している別の時間は、ひとたび触れれば、たやすく波立つ。


 帰り際、佐伯は玄関で深く頭を下げた。「必ず、繋ぎます」


 「繋がるさ」雨宮は言った。「元々、同じ艦に乗っていた」


 扉が閉まると、静けさが戻った。雨宮は机に戻り、日誌を開いた。新しい頁に、ゆっくりと書く。


 ——我々は確かに戦った。

 ——証人は少ない。

——だが、ゼロではない。


 ペン先が止まった瞬間、遠くで雷が鳴った。遅れて雨が来る。薄い膜のような雨音が、屋根を叩き始める。彼は目を閉じ、鼓膜に集中する。音の層の下に、別の音がある。甲板をかすめる風、砲塔の油の匂い、暗号の短い息遣い。


 ——記録は残る。記憶は海だ。

 ——海は、揺れる。だが無くならない。


 彼はペンを置き、封筒を一枚取り出して、宛名を書いた。山名恒雄。先の手紙とは文面を変える。会う日時、場所の候補、そして合言葉。


 ——「炎の三ヶ月」


 封を閉じる。立ち上がる。玄関の戸を開けると、雨の匂いが一気に流れ込んだ。彼は帽子を被り、階段を降りた。踊り場の窓越しに見える街は、ぼんやりと煙っている。その向こう側に、沖縄の海が透けて見える気がした。記憶は消えない。少なくとも、自分はそれを、今日もまた、紙に留めた。


 ——我々は確かに戦った。


 その一文が、やっと、彼自身の体重で紙に沈み込んだ。次の頁へと進む指が、ためらいなく動く。次の章へ。次の証人へ。次の海へ。

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