第2章 《沖縄の伝承》
梅雨明けの沖縄は、どこか東京よりも空が広かった。
佐伯啓介は、防衛研究所から派遣される形で現地調査に赴いていた。任務は「沖縄戦に関する記録と証言の収集」。だが、彼が追っているのは、単なる戦史の補完ではなかった。――大和が出撃もせず、沈没もせず、しかも“戦った形跡だけが記録に残っている”という矛盾。その鍵が、この島に眠っていると直感していた。
那覇の街は、戦火を免れた分だけ、他の都市よりも古い町並みが色濃く残っていた。焼け跡の代わりに、戦前からの瓦屋や石垣が生き延び、人々の暮らしの中に組み込まれている。アメリカ軍政下の英語看板が混じり、戦後の混沌と安堵が同居していた。
佐伯は大学に籍を置く民俗学者、仲村教授の案内で南部の村落を訪れた。
「この村は、沖縄戦の被害をほとんど受けなかった稀な場所です。住民たちは“神が守った”と語っています」
仲村は車の窓から見える青い海を指さした。
「彼らの伝承に、“炎の三ヶ月”という言葉が残っています。史実では戦闘がなかったのに、です」
村の集会所で、古老たちが集まっていた。深い皺に刻まれた顔は、まるで時代そのものを背負っているかのようだった。
佐伯は挨拶し、ノートを広げた。
「皆さんに伺いたいのは、昭和二十年の春から夏にかけての出来事です。米軍の上陸がなかったと記録されていますが、当時どのように過ごされていましたか?」
沈黙ののち、一人の古老が口を開いた。
「村は焼かれなかった。畑もそのまま。子供たちは芋を掘って遊んでおった。だが……夜になると、海の向こうが真っ赤に燃えとった」
別の老女が続けた。
「空が鳴っていた。ゴロゴロと、雷のように。昼も夜も……。でも、爆弾は村には落ちなかったよ」
佐伯は身を乗り出した。「それは戦闘の音だったのでしょうか?」
老女は首を傾げ、「さあ、わからんさ。夢の中の出来事のようでな」と答えた。
仲村教授が補足した。
「この村では“海の龍と鉄の巨人が戦った”という言い伝えがあります。龍は炎を吐き、鉄の巨人は海を割った、と」
佐伯は鳥肌を覚えた。それは史料に残る“大和と未知の艦艇の戦い”を連想させた。
「詳しく話していただけますか?」
古老は目を閉じ、低く唸るように語った。
「夜ごと海の向こうで火柱が上がった。鉄の巨人は島を守り、龍は空を覆った。だが三ヶ月経つと、海も空も静まり返った。――我らは守られた。それだけが真実だ」
村人たちは皆、戦闘そのものを覚えてはいなかった。だが「守られた三ヶ月」という結果だけが共有されていた。
翌朝、佐伯は海岸を歩いた。
波打ち際には錆びた金属片が散らばっていた。形状は見慣れた旧海軍の装備とは異なり、異様に滑らかな加工が施されている。
村の子供が拾ってきた欠片を見せてくれた。掌に収まるほどの金属だが、軽量で冷たく、何かの複合材のようだった。
「戦後からずっと、時々これが流れ着くのです」と仲村教授は説明した。
「だが正体は不明。米軍も“調査中”と言ったまま放置している」
佐伯は直感した。――これは未来の装備の残骸だ。
戦史資料に登場した“そうりゅう”や“Reagan”と関わる証拠ではないのか。
さらに調査を進めると、村の神社に奇妙な絵馬が奉納されていた。
そこには、巨大な船と炎の空が描かれていた。絵の拙さにもかかわらず、甲板を持つ鋼鉄の艦影と、そこから飛び立つ飛行機の姿がはっきりとわかる。
「これは戦後間もなく、村の青年が描いたものです」と宮司が語った。「夢に見た光景をそのまま絵にしたと」
佐伯は震える筆致をなぞった。――Reagan。その名を知る者がいない時代に描かれた、未来の空母の姿だった。
調査の終盤、佐伯は古老からこう告げられた。
「お前さんは知っているのか、あの三ヶ月を。わしらは夢のようにしか覚えとらん。ただ、村が焼けなかった、それだけが確かだ」
佐伯は深く息を吸い、答えを見つけられずにいた。
――記録は残っている。
――結果も現実にある。
――だが、記憶は消えている。
彼の胸に、言葉が浮かんだ。
「幻の三ヶ月……」
それは、史料と記憶の狭間に存在する時間。
大和が出撃せず、沈没せず、それでも確かに戦ったと記録された三ヶ月間。
人々にとっては神話であり、研究者にとっては矛盾であり、証人にとっては孤独そのものだった。
青い海が、静かに広がっていた。
波音はすべてを呑み込み、過去と未来の境を消していた。




