第1章 《証言の空白》
春先の曇天、東京郊外の閑静な住宅地。かつて軍都として栄えた面影は薄れ、戦後の復興住宅と畑が入り混じっていた。佐伯啓介は、背広に古びたトレンチコートを羽織り、駅から歩いて十五分ほどの道をたどっていた。手には防衛研究所の調査証明書と、分厚いファイル。
彼が訪ねる先は、元戦艦大和の砲術長であった山名恒雄中佐の家だった。戦後は公職追放を受け、退職後は郊外で静かに暮らしているという。
木造の家の玄関を叩くと、白髪の老人が姿を現した。痩せてはいたが、背筋はまだ真っ直ぐで、鋭い目つきが軍人の名残を伝えていた。
「君が研究所の……佐伯君だったか」
「はい。山名中佐、本日はお話を伺いたく参りました」
居間に通されると、古い軍服や勲章が桐の箱に収められていた。老妻が茶を運び、山名は深い息を吐いた。
「沖縄戦のことを、聞きたいんだろう」
「はい。記録には――」
佐伯はファイルを広げた。「大和は四月から六月にかけて、沖縄近海で米空母群と交戦したとあります。しかし、史実では大和は出撃しておらず、沈没もしていません。中佐は……この三ヶ月をご記憶でしょうか」
山名の瞳が揺れた。しばらく沈黙の後、低い声が洩れた。
「……覚えているとも。烈火の空だ。炎の雨が降り注ぎ、波間に死者が漂った。私はあの砲塔で、敵機を直に撃ち落とした」
佐伯は前のめりになった。
「具体的には?」
山名は語り始めた。
沖縄西方の海。四月十七日。米空母群が押し寄せ、数百機の艦載機が空を覆った。
大和は主砲を高角に上げ、三式弾を撃ち放った。炸裂する破片が空を覆い、炎の帯が敵編隊を切り裂いた。
同時に、味方の潜水艦――「そうりゅう」と名乗る新型が水面下で魚雷を放っていた。見たこともない流線形の艦体、信じられぬほど正確な索敵。大和の乗員は驚愕しつつも共闘した。
そして、敵空母の一隻。その艦首に「Reagan」と記されていた。鋼鉄の巨艦、甲板からは次々に近代的な航空機が飛び立っていく。
「私は確かに見た。Reaganという艦名をな」
佐伯の背筋に寒気が走った。
「やはり記録どおり……」
「だがな」山名は目を細めた。「私はその戦いを覚えているのに、他の乗員は皆“何もなかった”と言う。私の部下だった者も、生き残った砲員も、誰も覚えていないのだ」
居間の奥からもう一人、痩せた男が現れた。通信科の石倉上等兵である。山名のもとに時折顔を出していた。
「私も……覚えています」石倉は震える声で言った。「あの時、“Reagan”と打電したのは、私の指です。暗号符号は間違いなく送信した。紙も残っているでしょう」
佐伯は頷いた。「はい、通信記録に残っています」
しかし二人の証言は孤立していた。
数日後、佐伯は他の大和生還者数名を訪ね歩いた。
ある者は呉での整備任務を語り、またある者は「出撃の準備はしたが、そのまま停泊して終戦を迎えた」と答えた。
「戦った記憶? いや、そんなことはない。沖縄には行っていないはずだ」
「大和は最後まで港にいた」
証言は一様に曖昧で、戦闘を語る者は皆無だった。
五月、研究所で行われた非公式の座談会。佐伯は山名と石倉を招き、他の元乗員と同席させた。
「我々は戦った!」山名は声を張った。「炎の空を、敵艦を、確かにこの目で見た!」
だが、隣に座る元整備兵は苦笑し、首を振った。
「中佐、夢を見たんじゃないですか。私たちは出撃さえしていませんよ」
別の士官も同調する。「大和が沈まなかったのは、戦わなかったからだ。港に留まったからこそ残ったんだ」
山名の拳が震えた。「では、この詳報は何だ! 私の署名入りだぞ!」
だが彼らは紙に目もくれず、「戦後に誰かが書いたんでしょう」と言い放った。
居間に重苦しい沈黙が落ちた。
会の後、山名は佐伯にだけ呟いた。
「君は信じてくれるか」
佐伯は真剣に頷いた。「記録は嘘をつきません。問題は、なぜ記憶が消えているのかです」
「……それを解き明かさねばならん」
その夜、佐伯は研究所で一人、暗号紙片を机に広げた。確かに「Reagan」「Soryu」の符号が並んでいる。
記録と記憶――。
なぜこれほどまでに乖離しているのか。
紙の上の符号が、まるで別の世界から届いたメッセージのように見えた。




